お 説 教 集

 

2008年2月3日 年間第4主日 

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る
(マタイ5・8)


ロワゼール神父様


先日の土曜日、あるカトリック教会に属しているボーイスカウトの団に呼ばれました。そこで、カトリックのスカウトとして、どういう年間プログラムを立てればよいかについて話し合いが持たれました。年間プログラムといっても具体的なヒントをあげないと、たてられないものです。でも、私のようなよそから来た人間が、何か具体的なことを言うのも難しい。それで私はリーダーたちが、子供たちにどういう物の見方をしてほしいのか、それを考えてみて下さいといいました。

そんなにたいしたことではありません。昔からのことわざに、先生は生徒に教える前に、まず生徒のことをよく知るべきというものがあります。子供たち一人ひとりがどのように見たら良いのかということですが、これは皆さんがよく知っている歌を紹介しました。神様の愛という歌、子供の聖歌のひとつです。

神様の愛はしみとおる
私たちの心に 日の光のように

これはとても素晴らしい歌、意味深い歌です。隣の世田谷教会の前の主任司祭、佐久間神父様がお作りになった歌です。人の心に、人間のなかにひそんでいるものはどんなことか。それは神の愛です。そして、その愛は雨水が地にしみこんでいくように心にしみこんでいきます。神の愛は日の光のように、人を照らし、明るくし、咲かせているのです。

スカウトのリーダーたちには、まず自分たちの心のなかで、このことを認めようとお願いしました。教会のボーイスカウトとして、何を誇ることが出来るのか、何が特徴なのかを考えると、まさにこれだと伝えました。

自分の中に誇るべき存在があります。自分の中にあり、普通は見えない存在、それは神の愛です。このことを考えるほど、あの歌がすごいことを伝えているのがわかります。人間は優れた技能を持っているだけの動物ではありません。人のこころの底に神の愛と命が流れているのです。だから人間にはだれでも価値があるのです。自分は尊ばれる聖なる価値がある人間だということを、この歌は伝えているのです。

自分は宝物を持っています。どの国の人も同じく宝物をもっています。自分を尊敬し、人を尊敬し、思いやり、大切にする基礎がそこにあります。わたしたちは教会の人が兄弟姉妹だということだけでは十分ではありません。もし、それだけであれば、私たちが兄弟姉妹という根拠自体がなくなってしまうのです。同じような人間であるとしても、みなさんは神の子だからです。一人の父しかいないからです。そしてその心、神の心は人を保ち、すべての人間に対する愛があるということです。

そういうことを子供たちに伝えるにはどうすれば良いのかを考えて下さいと、リーダーたちに伝えました。私たち赤堤教会の皆さんにもお願いしたいです。どういう風にこのことを自分の子供たちに、自分の身近な人に、伝えることが出来るのか。話し合うべき課題だと思います。

スカウトのリーダーたちは黙って話を聞いてくれました。ときどき、うなずいて聞いていました。後日、二人のリーダーからメールがあり、団のリーダーたちに、一番言うべきことを言ってくれたと、評価をしていただきました。私の言ったことが伝わったことは嬉しいことですが、実際、プログラムのなかにどう精神的なことを入れて行くのか、それが一番大切なことなんです。

今日読まれたイエス「幸いなるかな」というお説教。どんなふうに聞きましたか。私はゆっくり朗読しましたけれど、やはりへたくそ。それでも皆さんは感激されましたか。ゆうべ、この朗読を練習していたとき、イエス様はどんな顔をして、どんな調子でこの話をなさったのかを考えていました。

おそらく強い自信に満ちた声で、全人類に届くように、究極に響く声であのお説教をなさったのではないでしょうか。まことの神の子にしかいえない言葉です。泣いているのに幸いだとか、迫害されているのに幸いだとか。この世の常識からすれば矛盾しているように聞こえることですが、この世界でどれだけ泣こうとも、どれだけ迫害されようとも、あなたたちは神の子であり、愛されている子、神の愛があなたの中に宿っている子。だから幸いだという。

このイエス様の宣言が私たちの赤堤教会を支えています。世界中の教会を支えているのです。とくに救い、なぐさめを求めている人たちには、自信を持つための力になるのだと思います。みなさんはそれで自信を持つことが出来るのです。神のおしえを伝えるだけでなく、その知恵を実行するということです。

私たちは神様にすべてをまかせるということが大切です。どんなことがあってもね。
どんなにわずらわしいことがあるとしても、いつも感謝して生きること。それが神の喜び、幸いです。いつもわたしたちに与えられています。神様は上から来るのではなく、いつも心の中に生きています。マザー・テレサがインドに行って、道端に倒れているひとたちをなぐさめていましたが、それも同じようなことです。どうしてか、結局、道端で寝ている人たちのなかにも神の存在感があるのです。

だから私たちはこのような人たちに対して献金だけじゃなくて、もちろん献金も大事なことですが、でもそれだけじゃだめなんです。まず自分が愛されていて、そしてその人たちも愛されていることを自覚して、献金し、ともに祈る。単純に祈る気持ちになると思います。私たちがいただいている恵みは、本当に無料(ただ)のものです。きょうのパウロの節にあったように、私たちが何かよいことをしたから恵みをいただいているのではなく、まったく神様の慈しみなのです。

パウロの言葉をここで読み返してみましょう。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い返して下さい。人間的に見て知恵のある者が残ったわけではなく、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけでもない」まったくその通りですね。だから私たちに誇るものがあるとすれば、それはパウロがいうように主を誇れということです。山上の説教の、話の中心はこういうことではないかと思います。私たちは神の恵みによって生きているのですから、最後は神にまかせましょうということになります。そして自分がこうして生きていることを幸せなことだと感じ、神に感謝し、そして喜びましょう。
 


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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