お 説 教 集

 

2008年2月10日 四旬節第1主日

罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた
(ローマの信徒への手紙5.20)


ロワゼール神父様

灰の水曜日がありました。司祭は灰を皆さん一人ひとりの額につける(塗布する)ときある文句と唱えるのですが、それには二つの選択肢があります。一つは「回心して福音を信じなさい」というもので、もう一つは「あなたは塵(ちり)であり塵に帰って行くのです」という文句です。皆さんはどちらの文句を司祭に言ってほしいと思いますか。

私はこのまえの水曜日に、「回心して福音を信じなさい」と語りましたが、ラベ神父様は「あなたは塵であり塵に帰って行くのです」の文句を使われました。皆さんの感じ方はどうだったでしょうか。ラベ神父様はまっさきに正直なことを言ったのかも知れません。私は余り正直なことを言うと皆さん耳がいたいのではないかと思って、遠慮してしまったのですが。今度は、私も正直な文句を使いたいと思います。

本当のことをいわれるのは、ときとして心にこたえます。言う方としても、あまりいい気持ちではありません。この身がしょせん塵だと分かっていても、もっと丁寧な言い方をしてほしいと思うものです。でも、思い切ってその事実を認めると、なんとなく、さっぱりした気になるのも事実ではないでしょうか。

私たちは毎年11月頃、墓参に行きますが、お墓のなかにあるのが塵だとすると、あらためて考えてみると、お墓って何だろうと思います。亡くなった人を偲んで、きれいな場所にお墓をつくりお参りする。それは決して悪いことではありません。

ただ、最も大事なことを忘れてはいけません。それは私たちが本来、墓に、塵に帰るものだということであり、塵に帰る場所が私たちにはあるということ。しかも創世記にあるように、その私たちは「神が永遠の命を吹き込まれた」ものだということが一番大事なんです。神がご自分の命を与え、生きるものとされた。だから私は決して死ぬことがない。

フランスの哲学者でパスカルという人がいます。彼がこう言いました。「人間は考える葦である」。そのとおりです。人は葦の草のように弱いものです。私たちは自分の弱さを毎日のように体験しています。けれどもその反面、私たちはすぐれて恵まれた生物(せいぶつ)でもあるのです。どうしてかというと、男でも女でも、神が永遠の命を吹き込まれて生きるものとされたからです。

神様が塵である私に命を吹き込まれました。神様の命だから永遠の命です。決して消えることのない命です。今日のミサのなかで洗礼志願者のための祈りがあります。残念ながらこちらの教会では今年は洗礼志願者はいませんでしたが、この機会に、自分が洗礼を受けたときのことを思い出してみるのも良いことです。

私たちが洗礼を受けたとき、どんなことがあったでしょうか。風で吹き飛ばされる塵のようだった自分の魂が、新しくかたちづくられ、洗礼の新しい息吹が吹き込まれましたよね。私たちは神の思し召しによって、一人ひとりが選ばれ、神の世界、愛の世界、神のメンバーになったのです。

これは大変なことです。考えてもみて下さい。神がただ私たちを選び、そのようにして下さったのです。ですから私たちは自分たちの墓に埋められた塵の中にもいません。キリストの墓は(磔になってから3日後に)空だった、つまりご復活されて、そこにはいなかった。それと同じく、私たちはキリストによって、キリストとともに復活するからです。

きょうの福音のなかで悪魔はイエス様に、もしひれ伏して私を拝むなら、世のすべての国や富を与えるといいました。嘘つきの悪魔め、何を言うのか!イエス様はそうおっしゃりたかったでしょう。いまの世の中でも、自分たちがすべての世界をつくったと誤解して、人にあげるあげないのはなしをする人がいますけどね。

誘惑されたイエスはただちに拒絶しました。イエス様がどうして、悪魔が言うような物を欲しがるでしょうか。イエス様は悪魔に「神である主をおがみ、ただ主に仕えよ」と言われました。

私たちも悪魔のささやきを耳にしたら、イエス様の言葉を借りていつも言いたいものです。「悪魔よ、退け。ただ主に仕えます」と。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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