お 説 教 集

 

2008年2月24日 四旬節第3主日

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
(ヨハネ4・14より)


ロワゼール神父様(子供ミサ)

今日の聖書の話にも出てきた水ですが、水は、自分の体のなかにどれくらいあると思いますか。皆さん知っている?こたえは60%くらいです。人間は水がなければ長く生きられません。食べ物は1週間くらいはなくても生きていけますが、水はだめです。水がどれだけ大事なものか、皆さんもわかりましたね。

いま、どんな国でも水を大事にしましょうといっています。地球上で、水がなくなると大変なことになりますから、何かしなければならないと多くの人が考えています。

水は、自分の体のために必要なものですが、イエス様のお話になった水は、いままで話した水とは同じものではありません。心の水とよぶべきものです。心を活かすためにも水が必要なのです。

心を活かせる人は、家族ともいっしょにいて、食べ物などにも困っていません。皆さんもそうでしょうが、お母さんたちは、本当に良いものを皆さんの体のために用意して食べさせようと頑張っています。それは大変なことです。でも、それだけでは、心を活かすためには十分ではありません。

大事なことは、満足するということです。そして心に力を感じて、元気になるということです。

よく心の病気といいますね。それは心のための水をくめなくなってしまった人たちのことなんです。もちろん、それは病気ですから、その人たちのせいではありませんが、心の水がなくて、心が渇いてしまった人です。イエス様はそうした人に、心をうるおし、養うような力を下さいます。

聖書に登場したサマリア人の女は、次第にイエス様のおっしゃっていたことが分かっていったようですが、イエス様のいった言葉はけっして嘘ではないし、狂人のたわごとでもありませんでした。私たちは教会に来て、互いに支えあって助け合っているなかで、心の水をいただいています。

神様は別の形でも、この水を与えてくれます。聖霊がそれです。聖霊という言葉のなかにも水という意味のつくりが使われています。やはり、心のなかみ、命ということと、水は近いのですね。さらに水のつくり(さんずい)がある「洗礼」はいのちを与えるということなんです。

水は洗礼でも大きな役割を持っています。先日も洗礼につかう水を運びました。洗礼式のなかでは必ず次の言葉をとなえます。「わたしは父と子と聖霊によってあなたに洗礼をさずけます」。
この言葉のうち、聖霊が命なのです。実は、水は大事なことではない、シンボルに過ぎません。

洗礼では、体のなかに神の息吹をうけて、新しくなります。息吹とは、風のようなものです。風がなければ空気がとどかず、心が死んでしまいます。水があって心が活きるのと同じことです。

わたしたちはこのように神様から恵を受けています。それはいつも、皆さんが大きくなってからも忘れてはいけません。神の愛で私たちは生きています。一番大事なことです。神の命でいきている、またその力で生きているのです。

降ろされているというか、こういう風に(上から下に両手をおろすジェスチャー)降ろされていて自分が新しくなる。それはこの世のことだけじゃなくて、神の国でもずーっと生きていけるように、いのちと力をいただきます。よく理解して、神様に感謝いたしましょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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