お 説 教 集

 

2008年3月21日 聖金曜日


ロワゼール神父様

主キリストのご受難の日に当たり、説教というより、黙想をしたいと思います。

最初にこんな話をご紹介したいと思います。アメリカの著名なユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼル(※)が次のように当時のことを話しています。ナチスの強制収容所での出来事でした。収容所されたユダヤ人たちは幼い子供の首吊りという、あるまじき残酷な場を強制的に見せられました。

ユダヤ人たちの多くは神様が奇跡で子供を助けてくださるように祈っていましたが天から何も答えはありませんでした。それで、ユダヤ人のある者は「神さまはどこにいるのか」と叫びました。その時、もう一人が言いました。「神さまはそこにいらっしゃるよ、絞首台に吊りさげられて。」

※ 1928年9月30日生まれ、ルーマニア出身のアメリカのユダヤ人作家。自らのホロコースト体験を自伝的に記し、1986年にノーベル平和賞を受賞した。

今日、キリストのご受難の物語が朗読されましたが、このときに抱く印象の一つは神の弱さ、無力さではないでしょうか。これは聖金曜日の大きな神秘です。

罪のない人、特に子供たちが人間の愚かな行動と罪によって、殺され、誘拐され、虐殺されています。そんな報道を聞くにつけ言葉を失います。そんなとき、いくら祈っても、神さまがなにも答えてくださらず、私たちの悲鳴に無感覚で、犠牲者を救ってくれないことについて、先ほどお話しました収容所にいた一人のように、神様はどこにいるのか叫びたくなるかも知りません。

神の子であるイエスさまは十字架につけられました。無罪者の中の無罪者でありながら人間の罪と苦しみを背負わされ、殺されたのです。父なる神は、イエスさまの最後まで、一言も言葉を発することはありませんでした。イエスさまが最後のときに「父よ、どうしてわたしを見捨てるのですか」と叫んでも・・・。しかし、イエスさまは最後に自分のすべてを、完全に、御父にゆだねます「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と。

「神はどこにいるのでしょうか。」「どうして、黙っておられるでしょうか」と聞く誘惑におちいるなら、あの一人のユダヤ人のように「神さまを探しているのなら、神様がそこにおられる、十字架の上に釘付けにされておられる」という答えにたどり着くのではないでしょうか。

神の愛には限界がありません。友である私たち、すべての人のために命をささげ、黙って苦しむ愛です。われらの神が十字架の侮辱と犠牲の神です。罪びとである私たちを愛されているからです。

キリストの受難と死ということを抜きには、神様がどんな方であるかを理解することはできません。なぜなら、神の愛の神秘がそこにあるからです。裸に戻って、空の手になって死ぬときまで、愛してくださるのは、神様の本当の姿です。

神の力は、見える何かではなく、存在、その命の中にあります。だから、愛する人にその存在、その命を分け与えるのです。だから、イエスさまは死んでから復活するのです。神の力は、いのちそのものです。

主よ、人のすべての苦しみの中に、苦しんでいるあなたがいることを悟らせてください。わたしが苦しんでいるときに、あなたがそばにいることを悟らせてください。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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