お 説 教 集

 

2008年3月23日 復活の主日
主が墓から取り去られました
(ヨハネ20・2より)


ロワゼール神父様

みなさん、ご復活おめでとうございます。
復活おめでとうというのは、あなたは本当の意味で生きている、おめでとうということと同じことです。復活というのは生き返るということです。

一週間まえに、桜の木のつぼみがまだ小さくて、いつ開くかなと首を長くして待っていたのに、きょう見たら、今にも咲きそうです。太陽の光が強くなったわけですね。桜だけでなく、いま自然がいたるところで生き返っています。

皆さん、メープル・シロップを知っているでしょうか。甘くて、美味しいものですよ。ぼくが生まれたところでは今頃、カエデという木にドリルで二センチぐらいの穴を開けます。するとすぐキレイな水のような液が出ます。

特別な器具を入れ、バケツにためます。うまくやると、一日で8リットルもの甘い水がとれます。農家の人たちはその水を沸かして、甘い蜜のようなシロップができあがります。冬の間、カエデの木は枯れたように見えますが、春の暖かい日が戻ると、自分の中にあった命がよみがえったようです。

でも、きょうの復活祭では、キリスト教会のみなさんが春を祝っているだけではありません。もっと、もっと、大事なことを祝います。それはキリストの復活です。いや、正確にいえば、復活なさったキリストのいのちです。

皆さん、神様はどういう方だと思いますか。それは、いのちに溢れている方です。またそれだけでなく、いのちをいつも配っているかたです。

それでは、神様がいないところとはどこでしょうか。それはいのちが存在していないところです。聖歌では「愛があるところに神さまがいる」と歌いますが「いのちのあるところに神様がおられる」と歌ってもよい。

反対に、いのちがないところに、憎しみがあり、戦争などがあり、人の心が枯れたような状態になります。そこに、神さまはおられません。
キリスト、神様はそういう人たちを救いたいと思われます。私の心が枯れた状態にあるとき、キリストは聖霊を送り、私を生き返らせたいとお考えになります。そのためのちからと愛を持っておられるのです。

キリストの復活は勝利でもあります。愛といのちの勝利です。いくら軽蔑されても、いくら嫌がされても、殺されても、神様が負けるわけがありません。

それでは、私たちが何をしたらよいのでしょうか。心の中にいただいたキリストのいのちをどう<活躍>させたら、よいのでしょうか。その答えは、神様のように、キリストのように「いのち」を配ることではないかと思います。心のいのちを分かち合うことだと思います。

ここで、みなさんと一緒にアッシシの聖フランシスコの「平和のいのり」と言われる祈りを唱えたいとおもいます。「いのちを分かちあう」ということはこういうことなのだと思います。

「神よ、あなたの平和のために、わたしを役立たせてください。
 憎しみのあるところに、愛が
 争いのあるところに、和解が、
 分裂のあるところに、一致が、
 疑いのあるところに、信頼が、
 誤りのあるところに、真理があるように、働かせてください。
 絶望から、希望へ、
 悲しみから、喜びへ、
 闇から、光へ、わたしたちを歩ませてください。
 神よ、慰められるよりも、慰めることが
 愛されることよりも、愛することが出来ますように、力づけてください。

アーメン、アレルヤ。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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