お 説 教 集

 

2008年3月30日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
あなたがたに平和があるように
(ヨハネ20・19より)


ロワゼール神父様

教会の聖歌としておそらく一番知られているものは「いつくしみ深き」という歌ではないかと思います。「い〜つくしみ深〜き、神なるイエスは〜」というあれですね。キリスト信者でなくても、知っている人は少なくないでしょう。

キリスト教ではお通夜とお葬儀の時に、もちろん、結婚式の時にも歌います。でも、歌詞は故人を偲ぶ感じですので結婚式の時だと、ちょっと違和感があるかも知れませんね。でも、それだけ、だれでも歌えるものだということでもあります。

何年前だったかよく覚えていませんが、ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世が復活第2主日を「神のいつくしみの主日」として、お決めになりました。復活祭前の聖なる三日間のときに、私たちはキリストの救いのみわざを黙想しましたが、それは「キリストのいつくしみ」によるみわざを黙想していたわけです。だからイエスが復活したあとには、神のいつくしみの日が来て当然でもあるのです。

さて、人類の罪を背負って、死ぬまで赦しを願う神とはどんな方でしょうか。いつくしみに溢れる方としか表現はないと思います。だから、復活祭の第二主日に、もう一同黙想してもよいと思います。

実は、神のいつくしみを知るためには、自分の罪深さを知る必要があります。しかし、現代人たちは罪の意識が弱い。まあ、犯罪と言ったら、いくらでも聞くし、あるのでしょうが、あなたは罪びとだと言われたら、そんな悪いことをしてないじゃないかと反発するかも知れません。

そうですね。おそらく赤堤教会に来られているみなさんのなかに、犯罪者はいないでしょう。しかし、私は罪人(つみびと)だというと、犯罪者だということと違います。人間の罪とはいのちをいただいたのに、その命を下さった方を無視して生きることにあるのです。

先ず、人間の罪はそういうものです。親を拒んでいるこどものようなものです。旧約聖書のイスラエルのことを考えると、イスラエル人たちがいつ罪を犯していたかと、イスラエル人たちがいのちを与えてくださった神様を無視して、勝手な道を選んでいたときです。神様のかわりに偶像を作って、それを拝んでいたときでした。

罪がそういうことだとしたら、現代の人も、あらゆる時代の人々はどんなに罪深いことでしょう。かれらは勝手に偶像を作り、拝んでいるのです。

でも、神様は子が親との断絶する行いをしても、いつも「良い人の上にも、悪い人の上にも、雨を降らせ、日を昇らせてくだいます」。また、あのたとえにある父親のように、放蕩息子が家に帰ることをいつも待っておられます。主なる神は身をもって、そのいつくしみをしめしました。

東京教区の大司教、岡田司教さまが聖木曜日の説教のなかに、信仰を証しした日本の187人の殉教者についてお話しをなさいました。「この日本人の信徒たちは、いのちをささげてキリストへの強い信仰をあかししました。かれらは私たちにとって大きな励ましであります。」と。

さらに大司教様がおっしゃいました。「現在は火あぶりなどで処刑される、という殉教はないでしょう。しかしもともと殉教は「あかし」ということであり、現代においても信仰のあかしという意味での殉教がなければなりません。現代社会を生きる信徒が力強く信仰をあかしすることは何よりの宣教であります。」

大司教様は蟻の町のエリザベス北原玲子の例をあげました。「敗戦後の日本は貧しい人々で一杯でした。北原さんは「蟻の町」のなかの三畳のバラックに住み、病気に苦しみながら、最後まで貧しい人と共に過ごし。愛によって、自分のすべてを神にささげ、「愛のあかし」を全うした方です。北原さんは自分で事業をおこしたとか、何か特別なことをしたわけではありません。彼女の日々の生き方が信仰のあかしでありました。

また、彼女は笑顔の人でありました。いつも笑顔で、自分の部屋の窓から人々へ優しく声をかけて、人々の励まし、癒し、助けとなっていました。北原さんは「常に笑顔と優しさを忘れずに自分の信念を貫きました。北原さんが病と闘いながら、貧しさのなかで祈り共に生き、二十八歳でなくなるまで。「蟻の町」に留まりました。

この生き方のなかに豊かな聖霊の賜物が見られます。」
日本の殉教者にしても、北原さんにしても、みんなが信仰をあかししましたが、それと共に、主のいつくしみも証ししたのです。「神は慈しみ深い方であるように、あなたがたも慈しみ深いものになりなさい」と言われたように。

ここで、また大司教様のお話しを引用させていただきます。「この50年間、日本は焼け野原のなかから立ち上がり、大きな経済発展を遂げました。しかしそれと引き換えに失ったものも少なくはありません。それはたとえば、人のいたわりと優しさ、暖かいこころのふれあい、隣近所と細やかな助け合い、貧しくとも心豊かな暮らし方、自然との豊かな交わりとかかわり、神・仏を敬い畏れる心・・・といったことなどです・・・

現代は戦争と管理の社会です。大人も子供も忙しく追い立てられるように時間を過ごし、強いストレスを強いられています。わたしたちは自分の欲望に振り回され、また同時に社会の巨大な圧力に苦しめられています。人々は、真実が見えない状態、いわば「むみょう」の中にあり、光の届かない闇の中にいます。教会の使命は、その闇を照らす光となり、人々の歩みを導くともし火となることであります。

経済的には富んでいても、精神的に貧しく、こころが傷ついている人が多いに現代において、北原さんのような純粋、卒直な信仰のあかしが特に貴重であると思います。キリストの光が私たちの心を照らしてくださいますように、私たちが、キリストの光のしるしとなって歩むことができますように、祈りましょう。」


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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