お 説 教 集

 

2008年4月6日 復活節第3主日
一緒にお泊まりください
(ルカ24・29より)


ロワゼール神父様

今日は我々が生まれてから、誰から一番影響を受けたかということを考えてみたいと思います。お母さん、お父さん、兄弟、親友、先生、恋人、子供など、数え切れないほど大勢の人の影響を受けて、いまの自分になったのです。

そして彼らの無償の愛によって、自分は大きく変えられました。あの人がいなかったら、自分はどうなっていたか。でも、このときの"あの人"というのは、じぶんで探して会ったのではなく、まったく偶然な出会いによるものです。

生まれる子も選べなければ、子も親を選べない。友達も、先生もめったに選ばない、お隣さんも選ばない。自分の教会の主任神父も選ばない。こうした偶然の出会いによって、いまの自分があるのです。

きょうの聖書朗読は、エマオへの道を歩いていた二人の弟子の話でした。ルカの物語の組み方は本当に見事です。文章は立派です。二人は絶望的な気持ちでふるさとへの道を歩いていました。あれだけ期待していたイエスが殺されてしまった。それは、もうどうしようもない世の中になっていたのです。

私たちも、どうしようもない世の中になってしまったと感じるときがあります。イラクの出口の見えない戦争、連日報道される殺人、地球温暖化に対する国々の無責任な政策、あちこちの政治の腐敗、などあげればきりがありません。あまり、こういうことを考えたくないというのが本音ではないでしょうか。

エマオへ向かっていた二人は、もう一人の旅人(実はイエス様だった)が同じように歩いているのに気が付きました。この人もはやく町に着きたいのだろうと思いました。旅人は、誰のことを話しているのですか、とお聞きになりました。そこで、二人は悩みを話し始めます。旅人はご自分のお考えを二人に一生懸命に説明なさいます。人間の救いは、聖書に書かれているように、救う方の苦しみを通してしか、実現されないのです。

エルサレムで十字架にかけられたイエス様の救いはいまだに続いています。苦しんでいる人たちに、迫害されている人たち、罪もなく戦火に遭い殺される人たち、みんなが、キリストが受けられた人類の救いとともにあるのです。すべての人間が神の愛に屈しなければ、キリストの苦しみが終わらないということでしょう。

その夜はいっしょに泊まりませんかと二人は旅人を誘いました。宿で、旅人はパンを取り祝福しました。その祝福のやり方がイエス様のやりかたです。彼らが悟ったとき、イエス様の姿は見えなくなってしまいました。

私たちとイエス様の出会いは、これほど自然ではなかったでしょう。しかし、洗礼のとき、初聖体のとき、そして思いがけないとき、心が温かくなるのを感じたことがあります。なんとなくそこに神様がいると感じたことがあると思います。そのとき、希望が生まれ、力がわくのを実感したことがあったのではないですか。

すべての出会いではないかも知れませんが、出会いが力になることは多くあります。イエス様との出会いが、人の力になるのです。今日もここでイエス様と出会います。司祭の手を通して、イエス様がパンをさいて、それを私たちはいただくのです。

養われた私たちは、あの弟子たちのように力づけられる。キリストは復活されたと、生活のなかで、喜びをもって述べ伝えましょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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