お 説 教 集

 

2008年4月27日 復活節第6主日
父は別の弁護者を遣わしてくださる
(ヨハネ14・16より)


ロワゼール神父様

最近はいろいろとあって、基本的なことといいますか、ひとつのことをしっかりと続けるのが難しくなっています。きのう青森県の十和田教会で、一週間前に亡くなったケベック外国宣教会の神父様(マルセル ポリケン神父様、08年4月17日、カナダのラヴァルで帰天)の追悼ミサがありました。彼は日本に来て52年、ずっと同じ場所で宣教をしてきました。病気になってからもずっと続けて、司祭職・宣教師という仕事をつとめていました。

彼は最後のとき、ほとんど話もできなかったのですが、「私はイエス様を愛している、イエス様は私のなかにいます」というようなことを言ったそうです。やはり、自分の人生のすべてがそこにあったのだと思います。イエス様のためにずっと、誠実に続けて、自分の生涯を捧げたということです。

ずっと同じ場所で、同じことを毎日のように行うことは、たとえイエス様のためであっても簡単なことではありません。人間は弱いから、いつも同じ気持ちでやるのでもないし、生活のなかには志の邪魔をするような誘惑もあるものです。けれども、ポリケン神父様はそれをやり通す努力をしたのです。

自分の本当の姿というか、人間としてどう生きたのか、ということは、やはりずっと同じことを繰り返して習得し、死ぬまでやり通したことにあるのではないでしょうか。蝶みたいに、この花からあの花というようにわたり歩くだけでは、わたしたちの人生は決して意義あるものにならないということです。ひとつだけでも、よく習得すれば、生きること自体が良いものになります。そしてそれは、私たちが誠実に取り組めばきっと出来ることです。

しかし、私たちのモデルとなっているのはキリストです。神様は決して変わらない。あちこち行かないし、気まぐれに私たちを愛するわけでもない。ずっと愛して下さっています。イエス様がきょうの朗読のなかでいっています。「わたしは決してあなたがたをみなしごにしない」。そう約束されています。本当に大変なことだと思います。いつも愛して下さっているのです。

この言葉は最後の晩餐の前に語られたものです。最後の言葉、遺言のようなものですね。あなたがたを決してみなしごにしません。そして私がいなくなっても、あなたがたに霊をおくります。これは私のようなもの、これをおくり、あなたがたを満たします。

神様のこの愛に、わたしたちがどう応えればよいのでしょうか。おのずと明らかだと思います。それは、この大きな愛のなかに生きて、この愛のなかで生き続けるということなのだと思います。きょうこのミサを捧げて、わたしたちが養われているということを自覚いたしましょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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