お 説 教 集

 

2008年8月10日 年間第19主日 

「主よ、助けてください」
(マタイ14・30より)


エミール・エテメ神父様

(エミール神父様にとっては、赤堤教会で初の司式となった)

皆さんおはようございます。
心配しないで。(一同笑)
(以下、信徒の通訳による)

まだ日本語が十分ではないので英語で話させていただきます。信徒の方に通訳をしていただきます。ゴメンナサイ。

今日私たちは主の御言葉をともに味わい、信仰をより良い形で強めるために集まりました。今日の福音朗読は、なぜ我々がキリストのあとに従うことを決意したのかを思い起こさせます。我々は洗礼の恵みにあずかったその日から、人生において神とともにあるために過去の習慣を捨てたのでした。

その日以降、我々の希望、信仰、そして助けはすべて主の中にあります。キリストとともに、我々は聖ペトロのように水の上を歩むことが出来ます。その瞬間、我々は強められたことを感じ、人生の中で特別な何かの一部であるという誇りを抱くことが出来ます。

キリストにおいて生きることは、我々自身の安全を忘れて、緑の牧場において主とともに歩むことを求める誰かといつも出会うことを意味します。本日の福音にあるように、我々の人生は小舟のようなものです。風が予想した方角から吹いているときは、幸福であり、心地よいと感じます。

しかし、逆風になると我々の小舟は揺らぎ始めます。もはや自分で小舟を制御できないことに気が付き、おそれおののきます。我々は自信を失い、自分がその他の被造物と同じもろい存在であることに気が付きます。

そのようなとき、全宇宙の支配者、イエズス・キリストこそが我々への答えなのです。時々、我々は自分の信仰を弱め、悪魔の仕業からの影響を受けやすくなるような疑念に覆われてしまいます。時には、主への信頼を失い、我々自信にのみより頼もうとします。

キリストがもはや我々のより頼む光でなくなれば、我々は罪への道をまっすぐに歩むことになります。キリストに心を開いた時から、我々は万物の創造主である御方の御手の中に、我々のすべてがゆだねられていることを知っています。我々は道からそれるたびに、自分の身体が沈むように感じ、苦しみを覚え、希望を失ったと感じるのです。

信者の皆さん。前の教皇ヨハネ・パウロ二世は、最初の回勅のなかで、「恐れるな」という主の言葉を使っておられます。恐れを抱くということは、人生のなかで最大の敵です。なぜなら恐れは我々の目と耳をふさぎ、身体を金縛り状態にするからです。我々は自分の面目を失いたくないと考えるとき、嘘をつき、虚構の世界に生きるようになります。我々はどうしたら良いのでしょうか。

主に近づき、我々に差し伸べられた救いの御手をつかみ、沈むこと避ける方法はただ一つです。その御手をつかみ、再び歩み始めること、それが我々の人生を正常な姿に戻すのです。

本日の福音のなかで、聖ペトロに主が言われたように、「恐れるな。私はここにいる」ということは主が我々全員に向かって言われたことでもあります。人生のなかで困難に遭遇したときはどうぞ思い出してください。「恐れるな。私はここにいる」。どんなときでも、どんな場所でも、思い出してください。

主の光の下で生きることは、我々が人生の旅路において孤独ではないのだということを十分に気づかせてくれるので、我々はいつも強められるのです。主はともにおられ、無条件に私たちを愛しておられます。

信者の皆さん。神は我々が疑いを抱き、不完全なものであるにも関らず、我々を信頼し、より良い人間となるための機会をいつもお与えになります。愛に満ちた父です。いかなる時もいかなる場所でも主の御心に沿うように求め続けることこそが唯一の道です。

イエズス・キリストにおいて、我々は皆、毎日我々を力づけ、お互いに信じあえるようお望みになる神の子供であることを忘れてはなりません。きずなは信じあうこと、愛し合うこと、赦しあうこと、そして和解することの上にこそ築かれるのです。

これらの原則にそって、我々はキリストの証し人になります。ひとりひとりがもたらす小さな光が、他の仲間の助けとなり、助けを差し伸べる主の御腕を垣間見ることになるのです。そして次のような言葉を聞くはずです。「我が子よ、私はあなたに無償の愛を注ぐ。恐れるな、私はあなたがたとともにいる」。

さて私たちが真実を語らなくてはならない重要な人物が3人います。それらが誰だかわかりますか?みなさん方がよくご存知の方です。

最初の一人は弁護士さんです。次はお医者さん。そして最後は神父さまです。なぜだか分かりますか?弁護士に真実を話さなくては、刑務所に入れられてしまいます。医者に真実を話さなくては、いつまでたっても病気は治らず、ときには死ぬことさえあるでしょう。本当は頭が痛いのに、足が痛いと訴えればお医者様は足の薬を出します。そんなことをしていては死んでしまうかも知れません。

同じように告解のときに、司祭を信頼して真実を語らなければ、罪から逃れることは出来ないのです。ときに、ゆるしの秘蹟において夫は妻の悪い点ばかりを挙げ、妻は夫の悪口ばかりがいわれることがあります。このようなことをしていてはいつまでたっても罪のゆるしは得られません。真実を語ることで、我々は罪をまぬがれ、自由になることができます。

皆さん、いつでも「恐れるな。わたしはそこにいる」という主の御言葉を忘れないで下さい。


エミール・エテメ神父
カメルーン出身。1975年生まれ。ケベック外国宣教会に所属、07年に初来日。都内の教会で英語ミサを司式するかたわら、日本語の勉強をなさっています。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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