お 説 教 集

 

2008年9月7日 年間第23主日 

二人または三人が
わたしの名によって集まるところには、
わたしもその中にいる
(マタイ18・20より)


ロワゼル神父様

先週まで2週間、留守にしていました。こんどの新しい神父さまはよく留守にしますねぇ、などと言われてしまうかも知れません。

この間、私は自分なりのとてもいい旅をしていました。そのことについてお話します。
この旅で、カトリック教会は本当にスゴイということを再発見しました。

まず、高森草庵というところにいきました。山梨と長野の県境にあり、八ヶ岳のふもとにある修道院です。林のなかに、日本の古い茅葺の家があり、だいたい10坪くらいの古民家が修道院となっています。なかにゴザがひいてあります。

少しはなれて、やはり民家がいくつかあり、一室だけあり、ゴザがひいてあり、黙想ができるようになっています。

ドミニコ会の押田成人神父様が黙想するためにつくった場所です。彼は五年前に亡くなりましたが、神秘家で、日本文化とカトリックの共通点を研究しながら、大自然とともに農産物だけで生活することにしました。彼の考えと性格ゆえに、あこがれる人たちが大勢訪ねて、心のリフレッシュと平和を求めています。

そこから車で20分ほどはなれたところにある、もう一つの修道院に行きました。八ヶ岳ベネディクト修道院(三位一体ベネディクト修道院)でした。高森草庵を出たばかりだっただけに、まことに別世界に着いた気がしました。

ベネディクト会の修道院は美術的にも建設的にも、本当に素晴らしい修道院です。なかに入ると、やはり安らぎをおぼえます。ここも黙想をするとところです。修道士とともに、祈り、黙想をすることが出来ます。

翌日、長野県のカトリック佐久教会に行きました。ここも素晴らしい。ステンドグラスも目立ってきれいです。89歳になられた神父さまの、文字通り手作りの教会です。いくら説明しても、実際にみないと、その建築のユニークさは理解してもらえないでしょう。

高森草庵にしても、ベネディクト修道院にしても、装飾のきれいな佐久教会にしても、すべてはカトリックです。みんなキリストに属しています。キリストの貧しさ、キリストの救いの豊かさ、キリストが与えるよろこびなど、みんな自分なりに世の人々にキリストのメッセージを、生活と教えを以って伝えているのです。

それはカトリックの素晴らしさです。私がカトリックを大好きな理由です。ひとつの形にこだわらずに、違いをこえて、キリストの姿を見つめ、ともに歩む教会だからです。

ときどきいわれることですが、教会の教えは難しいといわれます。でも、すべて頭に入れる必要はありません。三位一体の愛を信じるだけ。きょうのパウロの言葉にあったように、掟というのは隣人愛だけです。それだけ知り、それだけ守れば十分だから、分かりやすい教えではないでしょうか。

先日、集まりのなかで、この教会がもっと活発になるにはどうしたらよいか、皆さんで考えてくださいとお願いしました。でも、まず教会の本質から考えればよいと思います。教会はキリストの身体です。キリストが働くからこそ復活するし、キリストが働くからこそ救いのしるしとなるのです。

信者ひとりひとりでは、どう考えても、"尊い現場である教会"にふさわしい人ではありません。神父であろうが、信者であろうが、自分はふさわしいと考えている人がいたら、その人は勘違いをしています。

そんな限界がある一人一人が、ぶつかり、傷つけあったりしても、集まっている心をひとつにするなら、そこにキリストがおられます。そこにしか私たちの救いへの希望がありません。人が救うのではなく、キリストによって天の父が救うのです。

信者を増やそうとか、教会を活発化しようって簡単にいわれますが、でもそれは本来、人間の業ではないはずです。それらは結果であって、目指すべきことは、そこを本当にイエス・キリストの現場にすることです。もし、教会が言葉だけ、かたちだけ、自分だけ、対立する勝手な思いだけの現場にはキリストはおられません。

ただ、いま私たちのごミサのなかに、たしかにキリストは存在します。こうして心をひとつにした集いのまん中に、イエス様がいらっしゃるのです。今日の福音のことばです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、私はいるのである」イエス様がそう宣言なさいました。

こうもいわれました。
「どんな願いであれ、あなたの二人または三人が心をひとつにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる」
もし本気の願いがあるのなら、イエス様のいうとおりにしたほうがいいと思います。天の父はかなえてくださるのです。

でも実際に心をひとつにすることは難しいことです。それぞれ自分のおそれとか名誉とかこだわりとかをもっていて、二人が心を本当にひとつにすることも難しい。それが百人ならなおさらです。でもそれが出来たなら奇跡が起こります。

わが赤堤教会においても、かつて多くの先輩たちが心をひとつにして祈ってきました。このお御堂はそんな真剣な祈りに包まれています。熱心な祈りはもう消えてしまいましたか?とんでもありません。

わたしたちがここにいるのは、いまも熱心に祈っているから。私たちの心をひとつにした祈りのために、さらに何十年あとに、ここでどんな奇跡が起こるのかわかりません。

「心をひとつにして祈るならば、私はそこにいる」というイエスの言葉を信じるなら、この教会をもっと活発にするには、まずキリストがいるような教会にすることが必要なのではないでしょうか。
今日も謙虚になって、隣の人たちと心をひとつにして祈りを捧げたいと思います。

◆参考URL
高森草庵
http://www.dominicos.telcris.com/ine.takamori.htm

三位一体ベネディクト修道院
http://www.osb.or.jp/

佐久カトリック教会(の紹介ページ)
http://www9.ocn.ne.jp/~derusan/html/works.htmlfile/saku-kyoukai.html


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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