お 説 教 集

 

2008年10月26日  

あなたの神である主を愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい
(福音朗読主題句 マタイ22・37-39より)


ロワゼル神父様

 大切ということばは日常でよく使いますが、昔のキリシタンも使いました。ポルトガルの宣教師が日本に来た当時、「神の愛」を「デウスのご大切」と翻訳したそうです。当時、愛はもっぱら男女の関係を意味していたので、それにかわる言葉として、「大切」をあてたようです。 

(大切について詳しくはこちら http://gogen-allguide.com/ta/taisetsu.html

人間関係においてとても重要な言葉ですが、人を大切にするということは決して簡単なことではありません。長く、根気強く、徳のようなものを育てなくては、身に付かないことです。自分のことばかり考えていると、人を大切にする心はどこかに行ってしまいます。人の痛み、苦しみ、悩みなどを考える余裕はなくなり、世の中に、自分だけ存在していると思い込んでしまいます。

「隣人を自分のように愛しなさい」とイエス様はいわれましたが、それを実践するのは簡単なことではありません。人を愛するという、単純にロマンチックなこととは違うのです。以前、話したこともあるかと思いますが、人を愛するということは人を大切にするということと同じだと思います。

さきほど「ご大切」という言葉について話しましたが、「デウスのご大切の火」という言葉もありました。デウスはポルトガル語で天主様、神の意味、ですから「神の愛の火」となります。イエス様がいわれる「全身全霊を尽くして、主なる神を愛しなさい」とは「全身全霊を尽くして、主なる神をご大切にしなさい」となります。

日々の生活のなかで心から神さまを大切にしているでしょうか。朝から、晩まで。人によっては深夜までかも知れません。忙しくて気持ちの余裕がなく、これもあれもやらなくちゃ、という状態で、神様を棚上げしてしまう日が続いてはいないでしょうか。そして困難に遭遇すると「助けてください」と祈る。でも、これでは自分だけを大切にしているという証拠ですよね。

神様を愛するとはどういうことでしょうか。目に見えない存在を愛するということですから、本当のところピンとこなくて当然です。それについて、先ほど私たちが歌った詩篇をもう一度みてみましょう。作者は、自分の存在はすべて神様に頼っているとうたっています。この謙虚な態度があれば自然に神様を愛するということが分かるではありませんか。

もう一つ大事なことがあります。イエス様は「神を愛する掟」と「自分のように隣人を愛する掟」とは同じものだといわれました。「神様の愛はしみとおる。私たちの心に日の光のように」。

私も、人も、神様を宿しています。仏教では死んでから仏になるといいますが、キリストのおかげで、私たちは行きながらキリストになっています。だから、私たちが人を大切にすることは、思いやり、心の優しさなどによるだけではありません。キリストの血によって救われた人間のなかに、すなわち隣人のなかに尊い存在を見るからです。アッシジのフランシスコもそうです。貧しいものの前にひざまづくとき、彼は相手のなかに、尊い存在を見ているのです。

「自分のように」とイエス様はいわれました。自分も大切にするべきですが、自分が本当にキリストを宿しているかが問題です。もし、キリストを内に秘めているのなら、何を大切にしたらよいか分かります。マザーテレサは有名な人ですが、彼女が貧しい子供たちや病人のところに行くとき、それは神を見ていたのです。

このミサをささげて、新たにキリストのものになりましょう。感謝と希望のうちに。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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