お 説 教 集

 

2008年11月16 日  

ある人が旅行に出かけるとき、
僕たちを呼んで、自分の財産を預けた……
(マタイ25章14節より)


ロワゼル神父様
(子供ミサにて)


イエス様は一人ひとり心のなかに、種をまいているのだと思います。
花の場合は地面にぱらぱらと種をまけば、自然に育ち、
花を咲かせたあとに実がなります。
でも人間の場合は違う、自分だけでは育ちません。

人間の場合の種とは、心のなかにある、可能性と呼べるです。
通常耳にする"可能性"とは、勉強すればあの学校に入れるとか、
練習すれば競技会でいい成績が出せるとか、そのようなものですね。
ただ、神の可能性は、こうした努力によってのみ、
得られるものではありません。

さて、今日の福音ではタラントンのたとえ話が出てきました。
たとえ少ないものしか持っていなくとも、
それを大きくするように努めなくてはならない
ということがいわれています。

一番大事なことは、それは預かったものを増やすということ。
もちろん、高利貸しとか、そういうことをいっているのではありません。
神からの預かりものという意味です。

私の知人のなかには退職したときに、
たまたま絵を描いてみたら、とても上手に描け、
それ以降も素晴らしい作品をつくっている人がいます。
年をとっても、新しい可能性を見つけ、才能を広げることができる。
さきほどいいましたように、可能性はなにも学業や
スポーツだけではありません。

そんな可能性はいろいろありますが、
もっとも大切なのは自分のこころのなかに、
本当の喜びがあるのかということです。
本当の自分が得られるような、
可能性を見いだし、伸ばせるか、ということが大切なのです。

ここに高円寺教会の晴佐久神父様の書いた文章があります。
可能性を考えるうえでとても参考になるので、
ちょっと読ませていただきますね。

「いまどきの宗教、怖いですね。
誰だって押し付けられるのはいやですし
本来、信仰は無理を強いるものではなく、
内からわいて来るものですから、
いきなり洗礼といっても、それは当然ながら逆効果です。
ちなみに、ぼくなんかはいわゆる、宗教嫌いです。
独善的で権威主義的な宗教からは、
一番遠いところにいたいと願っている人間です。

けれども、その人のうちにある可能性。
秘められている福音の花を、どうしても咲かせたいという
切なる願いがあるのです。
自分がそのようにして、教会に救われ、
洗礼の恵みによって、生かされているものとして、
どうしてもだまってはいられない。

神父さん、あんまり熱心にいうと、
みなさん尻込みしますよ、とよくいわれます。
しかし、自分ではそれがないと生きていけない
喜びの世界について、黙ってはいられない。

皆さん一人一人に美しい花の可能性が秘められています。
その花を咲かせたい。一人一人の人間に、
尊い可能性があるのです。
神のなさろうとしている業に協力して、
どんな花を咲かせることが出来るのか、やってみたい。

どんな花であれ、必ず花が咲くことを信じて進みたい。
そして、神さま、5タラントンもうけましたといいたい。
よし、よくやった、といわれたい。
神の清算のとき、喜びを体中で味わいたい。ただ、それだけです」

まったく同感です。
よく「神父様はどうして日本に来て、
宣教をしているのですか」と聞かれますが、
答えはこの中にあります。

みなさんの中に咲く信仰の可能性があれば、
それを咲かせたいという気持ちがあるのです。

ここで、先ほどの例え話にもどりますが、最後にいわれています。
もうけた人が喜びをもって神のそばにいる。
もうけない人たちは、そうはならない。

このとき清算という言葉が使われています。
人間にとってもっと大きな清算は、最期を迎えるときでしょう。
そのときに、いったいどういう清算になるでしょうか。

しかし、私たちには別の役割もあります。
この世界、地球、自然がわたしたちに与えられていますが、

これをどう使うのかということです。
それを私たちは預かっているのです。
この使い方が問われているのです。

神様の前で、どういう清算が出来るのでしょうか。
この扱いで、神様を思い出して、行っているでしょうか。
自分のものではありません。いつか返さなくてはならないのです。

このミサの間に、自分がどういう清算を迎えたいのか、
一緒に考えていただきたいと思います。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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