お 説 教 集

 

2008年12月7日  

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
(マルコ1・3より)


ロワゼル神父様


年取ったら忘れ物が多い。
皆さんはまだそこまで行っていないかも知れませんが、
私は大変忘れ物が多いです。
いつもやっていることは覚えているのですが、
しばらくぶりにやることは、すっかり忘れていることがあります。
なかなか思い出せません。

この前、初聖体と洗礼式がありましたけど、
もう何年ぶりだったのか覚えていないほど、久しぶりでした。
自分では自信もっていたんですけど、
いざ本番となったら、あれ、どうだったっけ?と思う箇所もあったりして。
皆さんも同じような経験があるかもしれません。

たとえば、コーヒーを飲もうと決めて、紙フィルターをセットして、
その中にコーヒーの粉を入れて、
それで他の用を済ませて戻ってきたら、コーヒーが出来ていない。
そう、スイッチを入れ忘れているんですね。

ただ、コーヒーのスイッチを入れ忘れても、
クリスマスの準備、クリスマスを迎える心の準備は
忘れないで欲しいとおもいます。一番大事なことですから。

8月に北京オリンピックがありましたよね。
そのときは開会式がとても華々しく行われました。
そのための準備は何年もあったわけです。
準備があったから、観客の前でうまく行うことができたわけです。

私たちも同じです。心の準備をキリストの降誕に向けて、
着実に進めていかなくちゃいけません。

今日の福音では洗礼者ヨハネが、
その心の準備をどうしたらよいのか、一言でいっています。

"主の道を整え、その道をまっすぐにせよ"ということです。

洗礼者ヨハネはまっすぐに生きるというのは、
本当の救い主の方に、視線を向けることだといっています。
自分が救い主ではなく、先駆者に過ぎないといっています。
だから自分に注目するのではなく、尊き方、
これから来られる救い主に注目するべきだと。

彼は水の洗礼を授けましたが、その方は、
水ではなく、聖霊による洗礼を授ける方といっています。

聖霊による洗礼とは、神の愛、
そのいのちのなかに生きること、そういう恵みです。
神の方を向くという賜物が洗礼です。

この洗礼によって、人は罪のために消えてしまった姿を取り戻すことになる。
人は神の似姿になる。
結局、新しい人に生まれ変れる。
人が創られたときの姿に取り戻されて、
それで本当に人間、純粋な人間に帰るのです。

まっすぐに生きるというのは、
本当の人間として生きるということだと思います。
この世の中で、人間らしくない事件がたくさん起きています。
はたして私は人間らしい生き方をしているか。
それを待降節の間に反省して、考えてほしいと思います。

本当の人間になるように、というのがイエス様、神様のお心です。
本当の人間というのは、神様の愛で満たされた人間です。
その精神をもって毎日生きている人間です。

そのためにどう回心したら良いのか、
これは比較的簡単にわかるでしょうが、けれども自分だけで、
簡単に解決できる問題でもありません。

いくら頑張って、頑張ってみても、人は本当の人間にならない。
自分の生き方そのものを、
いつも自分を創ってくださった方に向ける必要があるのです。

今日のイザヤ書のなかにもあります。

「見よわたしの神、見よ主なる神、主は羊飼いとして群れを養い、
御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。

美しい言葉ですね。

わたしたちがこういうふうに神と接することが出来るということです。
神のふところに戻っていかなければダメです。クリスマスは、
神がイエス様を通して、そんな私たちに手を差し伸べて
くださったということなのです。

たしかに、神が手を差し伸べて下さっています。
その手のなかで生きること、
そのいつくしみに身をゆだねることが、まず大切です。

待降節はキリストが来られることを待ち望んでいるだけではなく、
幼子イエスが、私たちひとりひとりと触れるのを待っている
という意味もあるのだと思います。神の御旨を信じ、
本当の人間になれるように努力しましょう。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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