お 説 教 集

 

2009年7月5日  

霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた
(エゼキエル2・2より)


ロワゼル神父様


自信を持って

わたしの友達であり、同級生でもある神父が密室恐怖症という病に煩っています。かれは中南米に宣教師しているので、カナダに休暇を取ると知り合いの誰かといっしょにでなければ、飛行機に乗れないのです。

先月、彼はカナダに戻ったのですが良く知っていた二人のシスターと飛行機に乗り合わせなければならなかったのです。可愛そうだといっても仕方がありませんが密室恐怖症というのはそういうものです。

狭いところでドアーがしまっていれば、神経が狂ってしまう病気です。エレベター、飛行機、狭い空間や場所にいることに極度の恐怖を感じ、パニック状態になります。

密室恐怖症でなくても、病気でもなくても、いろいろの恐怖、いろいろの恐れがあります。病気を怖れる。戦争を怖れる。仕事の安定を怖れる。考えてみたら限がありません。しかし、怖れがこころを奪ってしまえば、精神がだめになってしまうことの注意が必要と思います。

というのは、人を愛する余裕はなくなることもあるからです。「怖いよ、怖いよ」とさけんでいるばかりなら、どうして、人を大切にしてできるのだろうか。怖れるばかりでだれに対しても、やってあげることは無理です。

怖れは誤解を生み、人を信用しなくなり、時に、人を悪魔てき存在にしてしまいます。それは、ひとりの人間の場合だけでなく、社会にもあることです。冷戦時代のベルリンの壁を考えると、やはり、相手を怖れた結果の取った手段です。相手は悪魔的存在になって、相手と対話を試みないで、暴力を選び、自分の孤独の社会を作ってしまいます。

しかし、人びとが自らの恐れに打ち勝ち、連帯して自由を叫んだとき、独裁は揺れ、壁が消え、冷戦は終わりましたが、それも、いともあっけなく、恐れから孤独へ新しくエルサレムの壁がまだあるのです。

幽霊を信じなくても、一人で真っ暗な夜の道を歩いていて、突然ふわりと揺れる影。思わず「出た・・・」と叫んで腰を抜かし、しかし、よくよく見ると、風に揺れるすすきの穂でした。すすきに罪はありません。ただ、人が自分でかってに恐ろしげな幻影(げんえい)を作りだし、自分で勝手におびえているのです。そのおそれのために。どれだけ自分を見失い、どれだけの愛を失ってきたことでしょう。

イエスさまは、何回も繰り返して「おそれてはならない」と弟子たちをはげましていました。それは、自然の大嵐のときにも、毎日の挨拶のときにも、さらに、死さえを迎えるときでした。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを怖れることはない。」(マタイ、10,28)

イエスさまご自身も怖れずに、まっすぐに歩いている姿を見せてくださいました。故郷に帰り、そこの知り合いの不信仰にうんざりなさっても、「付近の村巡り歩いて教え」続けておられます。

実は、わたしたちは怖れずに歩き続けることができるには、分けがあります。それは、キリストがいっしょに歩いておられるからです。どんなことがあっても自身をもって生きるのは、自分が強いから、優れた能力をもっているからではありません。

パウロが言っているように「生きるのはわたしでなく、わたしのうちにキリストが生きる」からです。または、「わたしは弱いときにこそ強いから」です。いったいわたしたちが何をおそれているのか。怖れるべきことはキリストから離れてしまうことだけです。わたしが「神の神殿」であり、父と子と聖霊の愛のうちに生きている自覚を持っているとしたら、怖れることはなく、自信をもって毎日を過ごすことができるのではありませんか 。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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