お 説 教 集

 

2009年7月12日  

主は家畜の群れを追っているところから、
わたしを取り、
「行って、わが民イスラエルに預言せよ」
と言われた
(アモス7・15より)

 


ロワゼル神父様


持っているのは宗教ではなく、使命である

 皆さんもご存知だと思いますが、アメリカでも、ヨロッパでも、宗教を持ってない人が年々増えているのです。だから、「わたしは宗教に関係ない」という人は日本と同じく、向こうにも大勢います。先月、カナダに行っていたあいだに、時々、「あなたの宗教だと、どう思いますか。」と言われたのです。

そういうことを言っていた人はカトリック洗礼を受けていたのに、どうなっているかと妙に感じましたが、あの時、いつも「僕の宗教はあなたと同じものだ」ときっぱりと言い返していました。こう言われた相手は戸惑ってなにも言えることがなかったのです。

宗教には厳しいルールがあるから、人間の自由を束縛しているとかれらは思っているようです。また、各宗教にはわけの分からない信条の教えがあるとか、または、歴史の中に、ごらんの通り宗教の違いで、人間のあいだに隔たりを起こし、宗教戦争までやっているではないかと彼らは言っています。だから、わたしは宗教は要しませんというのです。

しかし、「わたしの宗教はあんたと同じだよ」と言われたら相手は戸惑いますね。自分は宗教とは関係ないと思っているから。でも、どうして、「僕とあなたの宗教は同じだ」と私はいえるのでしょうか。

先日、子どもたちにお話しするように頼まれました。急に頼まれたから、準備する時間もあまりなくて、聖霊のインピレションに任すしかないと思いました。その場で、自然観察に行ったときのことを思いだして、話すことにしました。それは「どうして、木の枝はこのように伸びているか」という素朴な疑問です。

たとえば、この庭のさくらの木をごらんください。枝が遊んでいるように、右の方へ、左の方へ曲がり、くねり、上に、横に捻じ曲がっています。何で木の枝がこんなわがままの姿を見せているのかと考えてください、と子どもたちに聞いてみました。しばらく沈黙。ところが何秒かのあとに一人の利口な女の子は「枝の葉っぱは光を求めているから」と自信ありげに答えてくれました。さすが、うちの子は優れているなと思いました。

「枝の葉っぱは光を求めている」。枝が懸命に自分を伸ばして、なんとかして、葉っぱに太陽の光をあたえてやりたいのです。そうしなければ、葉っぱが黄色になり、枝も枯れてしまいます。上の光を求めて。
木が根っ子だけで生きるのではありません。

もちろん、根っ子が必要です。根っ子が土の栄養を取り、水を吸い込む、またはある根っ子が伸びていく苗をしっかりと支える役目をもつのです。見事に出来ているのです。しかし、苗は空に向かって伸びるために、ただ根っ子だけでは足りません。光で引っ張れてしなければ、すぐ横たわって、枯れてしまうのです。

ところが、人間さまはどうでしょうか。森一弘司教さまの「キリスト教入門」という本の中にこう書いてあります。ただし、これを読む前にちょっと断りたいのですが、この文の中に「今の日本社会」とありますが、「現代社会」と直したい。それでは読みましょう。

「今の日本社会に生きる人々の心を動かしている価値は、経済的な豊かさであり、それをもたらしてくれる能力・才能です。こうした価値観・人生観に日本社会全体が覆われ、それを超える価値観がはっきりと示されていないところに、日本社会の不幸があるようにわたしには思えます。

『先に先に進もうとすること、成功するだけが、人生ではない。ゆっくりと休んだ方がよい。その方がずっと価値がある』と確信をもって言える人は、今の日本社会にどれほどいるでしょうか。

そういえるためには、わたしたち人間の中には深い精神世界の営みがあるという、人間に対する洞察が求められます。経済的な豊かさや一時的な楽しさだけでは満たされない深い精神の世界があるという確信です。」

偉い森司教様がこう書いてくださるのですが、わたしは今の社会を見て、先ほどの木のことに比べたらどうだと思います。というのは、今の人間は根っ子ばかり張ってしまって、空の光を見ることはきらいか、そのための時間がないようなのです。

根っ子とは、現実的、日常生活、経済、テックニックなどですが、それは必要であることはいうまでもありません。でも、それだけでは、文字通りくだらない。しかし、宗教的、精神的な話しになると、それは後に聞こうと逃げます。魂の呼吸と言われるほど大切である祈りさえ思いつきません。そうなると、現代人の人間性はどうなるのでしょう。

一本の木と同じく、空を見上げて、光を求めようということは人間になるための必要な条件ではありませんか。でも、それだけでは、まだ十分ではありません。自分がなんのために生きているかを知らないと問題が起こります。

たとえば、ある子どもが、お父さん、お母さんが「失敗したな、あの子は生まれちゃったんだ」と言うのを聞いて自殺したという例があります。小学校6年生です。その子は、自分が存在していることは親からうらまれているんだと、耐えられなかったですね。いまの話しは極端な話しですが、やはり自分が生まれて存在している範囲で、その存在が認められてもらうのはたいせつでしょう。

「わたしの宗教はあなたと同じものだ」とあの人たちに言った意味は、結局わたしもあなたと同じく、あなたが考えているような宗教は持っていません」。イエスさまは新しい宗教を起こすことは、あきらかにお考えになりませんでした。

しかし、弟子たちにしよう、わたしたちにしよう、使命を与えてくださるのです。イエスさまはご自分が考えている哲学や、宗教を信じなさいと、決して言われなかった。しかし、わたしを信じ、人生の道を歩んでくださいとおっしゃいました。

きょうの福音も、そういうことではありませんか。「二人ずつ組みにして遣わす、派遣する」(マルコ6.7.)。キリストを信じることは、一つの宗教を信じることではありません。キリストを信じる一人の人間は自分が派遣され、この世界を新しくする使命を持っている人間だと思います。

さらに、イエスさまはこの使命を果たすには、悪を追い出す、人を癒す(と言うのは、この世を回復するような)能力も与えています。これ以上、素晴らしい使命があるのでしょうか。わたしはこういう人間だと自覚し、絶え間なく感謝したいと思います。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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