お 説 教 集

 

2009年7月19日  

キリストはわたしたちの平和
(エフェソ2・14より)

 


ロワゼル神父様

大丈夫だよ、彼は居る


北海道の山、大雪山で、台風のような嵐に出会って、遭難した16人の登山者のうち、8人が命を失ってしまったことが一昨日報じられました。大変不幸なことです。


皆さんの中にも高い山を登ったことがあるかたがおられるでしょう。天気が良くて、真っ青な青空のしたに山の上を歩くのは本当に気持ちがよろしい。太陽で顔が焼かれていても、クタクタ疲れても、目的地まで着いたときに、「万歳!!!」と叫びます。そして、うちに帰ってから、また、また、行きましょうと家の人と友人に伝える。

こんな体験を知らない人から見ると、山登りなんて可笑しい、どうしてわざとこんな苦労をする必要があるのかと思われるでしょう。富士山を登ったから自慢をする人の気持ちならいくらが分かりますが毎年のように、今度はどこの山を登ろうかと思う人の気持ちは、登山者以外の人にはよく分かりません。

やはり、山を登らなければ、登山する魅力は分からないと思います。山の上の世界は別世界のようであり、そこでしか味わえない勝利感のような気分があります。だから、山のトリコになります。

ところが、ガスと呼ばれる深い霧のなかにいると、気持ちが変わります。足のふもとぐらいしか見えず、仲間がいることはその声でしか分からないあせりがわいてきます。悪天候の中に時々泣くほど孤独感で襲われてしまうこともあります。ガイドのしっかりとした支持で支えられ、ゆっくりと歩き続く。

しかし、ガイドさえ弱れば、これでパニック状態です。今度の遭難はガイドの支持のあまさが指摘されていますが、それは本当かどうかわかりませんが本当であれば、導くということは、いかに大事であるかを新たに証明されますね。

さて、ガイドといえば、「大勢の群集を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみました」という今日の福音書の部分と関連していますね。「深く憐れむ」という表現は福音のことばとしては大変強い表現です。胃袋、はらわたが痛くなるほどとか、涙がぼろぼろ出るほど、全身で感じているぐらいのこころの痛みです。

このことばはあの群集の前にいるイエスさまのこころを表しています。しかし、これはイエスさまのことだけでなく、神さまのことでもあり、神全体と言えるか、三位一体のこころです。深い哀れみをもっているのはイエスとともに、天の父であり、聖霊であります。

お互いの強いつながりがあるところ、一人のこころにあるのは、三人のこころにもあります。そして、その哀れみを彼らがご自分の手でお創りになった人間に対する慈しみと愛そのものです。父なる神、イエスさま、母なる聖霊がいつも手をつないでいるように、隔たりのないものですから。

 「大勢の群集を見て、飼い主のない羊のような有様」というのは、みなさんどういうことだと思いますか。先ず、飼い主ということを考えましょうか。

日野の高幡教会にいた時に、教会の一人の方が団地にうろうろしていた飼い主のない秋田犬の雑種の犬を連れてきて、神父さん、あの犬が可愛いそうですから、教会で飼ってやればと進められました。あまり積極的な返事をしないうちに彼女は犬を置いていて、帰ってしまいました。

結局、いつもの通り、はっきりと断ることができない神父があの犬をもらいました。ところが、そのメス犬はおなかに赤ちゃんをもっていたのですからびっくり。2週間しないうちに三匹の可愛い犬が生まれました。しかたなくそのお母さんとその一匹の子犬を育てることになりました。

しばらくしたら、懸命に飼育した気持ちが伝わったのか、母犬が大変よくなついできて、わたしが言うことなら何でもしたがっていました。そして、隣の修道院で食事のお世話をしていたシスターもその犬にご馳走をやっていたから犬の恋人みたいになってしまいました。

ところが、三年過ぎたぐらい、−それは12月の23日の朝だと覚えていますが、夜の内に放してやった犬が次ぎの朝になっても戻りません。そして、割合に車が多く通っていたところに探したら、道端に近くあった雑木林、わが犬の死骸がそこにありました。ぼくも寂しくなったのですがいつも犬を養っていたシスターは、その年のクリスマスは泣き続けるクリスマスになってしまいました。

飼い主はそういうものですね。自分で飼っているものは自分の生活には欠かせない存在になってきます。
ところが、イエスさまはご自分が人間の飼い主であると言われました。そして、それは人のために命を捨てる覚悟ほどだといわれました。こんなにわたしたち一人ひとりが、飼い主イエスに大切にされています。それは三位一体のこころです。

と言いながら、「イエスが飼い主のない人たちも深く憐れんでいるのに、そこで泣くことを止め、ご自分があの人たちの飼い主になったらいいではありませか。ご自分はそれができるのではありませんか。」と、みんなさんのなかでこう思っている方々がいるか知れません。

もちろん、イエスはそういう能力をもっています。しかし、けっしてそれを強制なさいません。人間が勝手にずっとうろうろしようと思えば、イエスさまも神様もなにもできません。神様は愛そのものですから、人が愛をもって従わなければイエスさまが何も出来ません。

結局、飼い主なしの群衆はイエスのメッセージを聞く耳を持たず、または聴こうともしない人たちです。自己中心、束縛にいたる楽しみなどの暗さの中に住んでいる人たちです。でもそれだのに、イエスさまは疲れを忘れて、今日も、いつも、かれらに神の子らに生きることばを教えます。

生きることばとはあなた方はみんな、神の子で、愛されている子だというものです。神が自分の子等を、一人も残らず、一人ひとりの名前で呼んで、みよ、神がいのちを捧げるほど、いつまでも憐れみ深い飼い主のような方ですよと伝えます。

こんなことを信じ、その声に答え、その愛のうちに生きようとする人は幸い。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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