2009年7月26日
イエスは座っている人々に、
欲しいだけ分け与えられた
(福音朗読主題句 ヨハネ6・11より)
ロワゼル神父様
神よりの糧
はじめに、今日のみことばから、わたしたちがどう神さまから養われているのかを考えましょう。第一の朗読のところ、神の人と呼ばれていたエリシャは、召使がもってきたただの20個のパンと穀物の一袋を百人のひとびとに上げるのを命じました。やってあげたら、間に合っただけでなく、あまってしまいました。
つぎの朗読は先週の日曜日にあったパウロのエフェソの教会への手紙の続きです。エフェソの人びとが、柔和で寛容の心を待つようにとパウロが勧めます。なぜか。みんな、自分のうちに神が居るからです、と。
結局、わたしたちは神の命で生かされて、満たされているので、愛のわざを実行することによって、本当の神の家族になるのです。
詩篇も、神がすべてのものに、食物を与えてくださると歌います。なんとなく、詩篇が描いているものが、楽園の状況のようだと想像します。そして、また、その状況がもうこの世にあると訴えています。
今日の福音はヨハネによるものですが、先週のマルコの福音のところに繋がっています。先週は、イエスさまは群集を憐れんでいるすがたを見せてくださいましたが、今日の福音には、あの同じ群集をただ憐れみをもってごらんになっているだけではなく、例外なく、漏れなく、みんなを養ってあげます。
マルコにも、このパンの奇跡の物語がありますが、ヨハネの場合、イエスの動作。「パンをとり、感謝の祈りを唱えてから」とあるように、このパンの奇跡はご聖体のことと結びついているようです。
いずれにしても、この奇跡は、イエスのこころを表しているのです。これはその愛がすべての人びとの現実の中に、だれも忘れず、おいでになるということです。
みんなさん、もし人間は神を無視せずに、自分勝手に神だと思わずに、いつも神が母のように、父のように思い、神に対して、従順のこころを保ったとなったならば、いま、わたしたちの生きている世界が、どんなものだっただろうとお考えになったことがあるのでしょうか。
実は、わたしたちが、今生きている世界は神様が作った世界ではありません。人間がかってに作った世界です。この苦しみの世界、飢えの世界、戦争の世界、死の世界は神が作った世界ではありません。広島に来られたヨハネ・パウロ二世が言われたように、「戦争はひとのわざ、平和は神のわざ」です。
もちろん、幸いに、この世界に神さまがおつくりになった美、良さ、すべての価値があるものが残っています。人の思い上がりによって、この世界がまだ完全に壊されていないし、創造主の足跡がまだ、まだ残りっています。
さらに、ご自分の手で、ご自分のすがたによって、慈しみをもっておつくりになった人類の一人ひとりをけっして忘れていません。いまも、神が裸になってしまったアダムとエバに、心優しく、着物を与えてくださっています。
今日の福音に、イエスさまのパンの奇跡が紹介されています。そこに描かれている状況は楽園の状況です。人間が幸せ、食べ物のことを心配せず、結局、神様はいつも台所にいて、私たちを養おうとなさいます。結局、楽園がもう現実的に来ています。楽園は神の国です。
パウロは、この楽園、この神の国がわたしたちの教会と社会のなかに現実なものになるように、エフェソの教会の人たちに願っています。
「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
頭では分かってはいるのですが、実行することは毎日の課題ではありませんか。
(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)
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