2009年9月20日 ロワゼル神父様 年間25主日 ― 2009年9月20日 尊敬すべき者はだれ 「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるようになりなさい。」(マルコ9、35) 日本に来てから、日本人の神父さんたちと接する機会が多くありました。幸いに,出会った神父さんたちのほとんどは謙虚な方々でご自分の教会の信徒の皆さんのため、また、もちろん、キリストのために忍耐強く奉仕していることをよく見受けました。
ご存知のように、日本で司祭になることは社会の中に優れたポジションとして認められている職業ではありません。かえって、かれらはよその宗教のお坊さんと見なされ、裏切り者とされて、家から追い出された神父に会ったこともあります。日本の神父さん自身はそうとは思わないかも知れませんが、わたしは、彼らが偉いと思います。
人のことを考えると、尊敬すべき者はそうだと簡単に分かります。しかし、自分のことになりますと、わざと、自分が尊敬されたいとなると、妙に変化してしまいます。尊敬されたい気持ちを持つと、可笑しくなります。また、尊敬されてもらうことが自分の行動の動機になると、すべて狂ってしまいます。
自分があの人と比較して、あの人より、偉くなりたい。それができなければ、悲しくなり、焼きもちが生じ、怒ったりする。心の中に悪性癌が発生したような状態になります。人との付き合いになると、それが「内部で争い合う欲望の原因だ」と、今日のヤコボの手紙(4,1)のなかに描かれているようになります。 心が曲がったことの結果のもう一つはいつの間にか、自分が善と戦うようになるものです。預言者に対して、キリストに対して、当時の人びとは別に何もわけはなく、ただ彼らが良いから、善人だから、亡きものにしようと決めつけます。 ところが、イエスの弟子たちさえ、偉くなろうと欲望もっていました。彼らは「自分たちのなかでだれが偉いか」とまじめに論じ合っています。こんなことにこだわる彼らは、一皮向けば、身かってなエゴイストです。こころの目が鈍くなり、イエスの本当のすがたが見えなくなります。
自分の幸せしか関心のない者になり、この世界の現実に思うままにもてあそんでいることをそのまま受容しようとするなら、イエスさまの生き方が理解できないのは、当然です。というのは、いまイエスさまが予告なさった自分の苦しみと死を、弟子たちが持っている価値観だと、どうしても理解できないでしょう。 イエスさまはあれ以上議論なさいません「一番先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」と言われました。そして同時に、さらに具体的なジェスチャーをなさいます。そこにいた一人の子ども、―というのは、社会に地位を持たない人間―をみんなの真ん中に立たせ「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 それまで弟子たちの人生を導いてきた動機は、尊敬してもらうこと、目先の幸せ、社会的な成功、自分の生きがいの充実などへの欲望だったでしょう。そこにとどまるかぎり、苦しみに満ちた人生に意義を見出すことはできません。尊敬してもらおうという欲を捨てなければ。 「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」、また他の訳に「こころにかける者たちのために自分を投げだす。これにまさる大切に思う心はない」とイエスさまはいわれました。「自分を投げ出す」ということを具体的な行動で現せると身を忘れ、人に仕えることと似たものではないでしょうか。もちろんそれを完全に現したのは、先ずイエスさまご自身です。 神父も、政治家も、科学者も、だれもみんな、へりくだって、貧しい人にも、小さくされた人にも、差別されている人にも、だれにも区別せずに仕えることによって、苦しみがあろうとも、充実な人生、喜びのある人生を営むことになるではないでしょうか。それで、その人がこの世の人生の道の終点に達したときに、イエスさまから抱かされるでしょう。それだけの報いが ―報いをのぞむとしたらー、十分ではないでしょうか。 (文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい) |