お 説 教 集

2010年12月24日  


ロワゼル神父様

主イエスのご降誕・クリスマス


主イエスのご降誕のよろこびを申し上げます。おめでとうございます。

先ず、今日、クリスマスのミサに来られた皆様に「ようこそ、おいでになりました」と申し上げます。はじめて教会に来られた方々も居られると思いますが、いのちの神秘であるミサですから、どうぞ、ごゆっくり、そのよろこびを一緒に味わってください。

カトリックのミサは儀式ではありません。今日、私たちがその誕生を祝っている幼いイエスは、その人生が終わるまえに、自分のいのちをささげるほど、大きな愛を私たちに示しました。そして、わたしたちの心にもう一度生まれたいと望みました。いつまでも、わたしたちとともにいたいと望み、ご聖体の宴(うたげ)をお考えになりました。その宴の繰り返しがミサです。

実は、クリスマスとは「キリストのミサ」との意味です。だから、今日、ここにミサに預かっている皆さんは、本物のクリスマスに参加なさっているのです。

今週、教会の外でお会いした方から「今週、クリスマスですね。お忙しくなるのですね」と何回も言われました。わたしも神父ですから、たしかに忙しいのですが、しかしいくら忙しくても、いくらか疲れても、決してつらいことではありません。わたしが、ちっともつらくない理由は、クリスマスの準備している間に、もうすでに、新しい希望とよろこびを感じているからです。世界のクリスマスの音楽を聞きながら、クリスマスが来て、世界のすべての人がそのよろこびを分かち合うとを思うと、感動を覚え、疲れなど忘れてしまいます。


よろこびの日としてのクリスマス
この準備の間に、こちらのマリア幼稚園でも、隣のカノッサの幼稚園でも、クリスマスのお祝いをしました。教会土曜学校、ボーイスカウト、ガールスカウトのみんなも、昔、ベツレヘムでイエスが誕生したことを祝いました。

クリスマスになると、教会に関係している人たちはなんとなく、特別な気持ちになり、イエス様をお祝いしたいと思うようになります。どうしてでしょうか。2千年前から、その誕生を歌い、思い続け、人々の話題になるあのイエスとはだれでしょうか。

イエスが他人の赤ん坊といえばそれまでです。イエスはたしかに貧しいところで生まれましたが、現代では、衛生的にもっとひどいところで生まれる子どももいます。生まれてすぐに親から捨てられる子供すらいます。

では、どうしてイエスという名の赤ちゃんが生まれたことを、これほど大勢の人が喜ぶのでしょうか。その理由を本当に理解することは、実はちょっと大変なことかも知れません。

それはクリスマスの日を本当に喜ぶことと似ています。
クリスマスはもちろん喜びの日です。しかし、その喜びを味わうためには条件があります。それは理屈を捨てるという条件です。なぜなら、理屈で心をいっぱいに満たしていては、神秘的なことを感じることも悟ることも出来ないからです。クリスマスの神秘は、つまりクリスマスに隠されている神のこころは、どんな優れた哲学や科学をもってしても、知ることができません。

神のみ使いが、マリア様に「神には、何一つおできにならないことはない」と告げられました。神の愛は人間の理性を超えているという意味です。まずこのことばを信じ、それから、神のおどろくべき愛の広さ、深さと尊さを探るのです。

先ほどミサで朗読した降誕の福音は、よく知られています。すべては美しく、清らかで、気高いものです。すべてを治める方が、私たちのところに来られる。愛そのものが、母の手に抱かれ、飼い葉桶に寝ています。いつ眺めても、大きな感動を覚えるのではありませんか。

そして次のような、み使いのメッセージも重要です。
「恐れることはない。わたしは、すべての民に及ぶ大きな喜びの訪れをあなたがたに告げる。今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。」
このメッセージを聞いたのは、あの丘の上に羊の番をしていた羊飼いたちでした。神の救いのよき訪れが伝えられたのは、この貧しい、社会から見捨てられた人たちでした。この人たちも、救いを必要としていた人々です。

「救い主が生まれた」ということ、また、人を救うこととは、どんなことでしょうか。一般的に、救いといえば、苦しみや災いからまぬがれること、また死や危険から助けられることなどが思い浮かびます。いずれも救いのジェスチャー(身振り、手振り、意思表示)によって、困難から自由になり、癒され、保護されるものです。

こうした救いは万人が必要とするものです。そして、こうした神の救いは、聖書のなかにずっと見られるのです。神はいつも人を救いたいのです。独り子を与えるほどに、世を救いたい、人にいのちを与えたいとお考えになっています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」これは、イエスの約束です。
 

いのちであるイエス
人を救うことは、いのちをより豊かに与えることです。馬小屋のなかにあるイエスとマリア様を考えると、わかりやすいです。
マリア様は九ヶ月間、その子を胎内に宿し、その子が生まれたのでお乳を与えます。その子が神であることもときどき忘れ、「わが子よ」と、赤子を強く抱きしめたことでしょう。しかし、敬虔なマリア様はしばらくして「この子が神である」と思い出し、畏れを感じたことと思います。

もしかしたら、これはすべての母親に共通する感情かも知れませんね。子供は自分の肉体から生まれた子ですが、もう自分ではない。考えていることも、すでに自分とは違います。自由に生まれた子は、生まれてからすぐ、離れてしまいます。マリア様の場合はとくにそうだったでしょう。

普通の女性は、マリア様のような体験はできません。神さまが自分の子供、自分だけの愛しい子供と感じるなどということはありません。しかし、これほど小さな神、母親の腕のなかに抱かれ、心臓の鼓動を聞いて安らぐ神、大人をみて微笑み、可憐な息をする神さまとは、いったいどんな神さまでしょうか。


聖体のキリスト
しかし、イエスの誕生も、クリスマスの出来事も、大昔のことではありません。いま、私たちはこうしてクリスマスを祝っています。さきほど申したように、今日、わたしたちの心にイエスさまが生まれます。マリア様と同じように、自分の子として、分身として胸に抱きます。こころにそう感じているのではありませんか。

クリスマスは「キリストのミサ」という意味です。そして、ミサは宴です。「このパンはわたしの体です。」とイエスはおっしゃいました。そのパンを食べるたびにこころにイエスをいただくのです。イエスのいのちをいただくのです。

このミサの間、赤堤教会では、幼い兄弟が初聖体をします。パンのかたちで、マリアさまのようにイエスの体をいただきます。これ以上、大きな宝をいただくことがありません。サンタクロースのかつぐ袋にも、入りきらないほど大きな大きな宝物です。これ以上のプレゼントはありません。

イエス様のこころとあなたがたのこころが一つになるときです。そのことを忘れないでください。そして、困ったときに、苦しいとき、いやなことがあったときに、イエスさまがそばにいると、いつも思ってください。

このように、神さまは夜空の星座の上にいるのではありません。神は、理解できないほどの愛をもって、わたしたちと一緒に住み、心の中にいることをお望みになりました。神さまは、素晴らしい建築、金持ちの屋敷も望んでいません。望んでいるのは、私のこころに住むことです。こうして、神にこころを開くとき、毎日がクリスマスになるのです。


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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