お 説 教 集

2013年2月3日  


ロワゼル神父様

群衆ではないあなたに、イエスは愛をそそぐ

預言者とは、未来を予想するといったものではなく、神からうけた言葉を伝えるという意味を持ちます。これはしごとはやさしいことではありません。人々からバカにされ、迫害されることもありました。しかし、主はいつのときも預言者を見捨てることはありません。

今日の聖書の福音に出てきたエリヤも預言者ですが、神はいつも預言者が確信をもって行動できるように、励まされています。

私たちにも、預言者のような使命があると自覚しなくてはなりません。預言者は社会的な特権層を批判し、貧しい人、差別されている人の側に立つことをおそれません。マスコミの言いなりではなく、福音の価値観に立っていると自覚しなくてはなりません。

現代では、キリストのよき知らせが馬鹿にされている、キリストを追いやる理由にまでなっているのです。

20世紀は歴史の中で、じつは殉教者の数が最も多い1世紀でした。しかし、どんな場合でも、神の言葉を殺すことはできませんでした。神を伝えるひとたちを、本当には殺すことはできなかったのです。みことばのみのりを、妨げることはできなかった。

福音のなかで、イエスを群衆が崖から落とそうとする場面があります。さっきまで神とあがめていたのに、ちょっと意にそぐわないと、こんどは攻撃する。そのときの群衆のつりあがっていた目を想像してみてください。

これは匿名ということの意味を示唆しています。名前のない、群衆はあとから、罪を問われても知らないと逃げる人たちです。そしておそろしいことに、群衆のようになる危険性は私たちのなかにもひそんでいます。

イエスは群衆から立ち去りました。逃げるのではなく、ただ去った。とどまることもできたのですが、そして、しばらくのち、今度は神の子として、しっかり人間のなかに立ちます。

後にヨハネ福音書18章にあるように、イエスが捕えられるとき、ナザレのイエスを捜していると兵が言ったとき、イエスは「それは私である」と言われました。イエスは、すべての人を救う、真の救い主だと宣言され、そして十字架につけられた。それは群衆を救うため。

私は私であっていいとおしえ、すくいを信じることでこの世の天国にいるようになる、そういう力を教会は持っています。私はただ一人、イエスキリストとともにあるなら、この顔で、この体で、私だといえる。群衆になることはありません。

またマルコによる福音書5章では、悪霊にとりつかれた者にイエスが名をきくと、悪霊が「レギオン」といったと書かれています。レギオンとは軍団という意味ですが、結局、ひとりではなく、大勢ということです。

少しまえに、納豆でやせるという噂が広まりました。それを信じてみんなが納豆を買いにスーパーに走りました。でもウソでした。わからないこと、群衆は何をするかわかりません。悪魔的な力がはたらけば、みんな群衆になってしまう。私たちはいとも簡単に群衆になるものです。群衆の中にイエスはいません。教会は群衆的なものとは、もっとも離れた存在でいなければなりません。

2月17日は四旬節第一主日ですが、この日、洗礼志願式が行われます。一人一人の名前、顔もある、とうとい人生をもらっている。神の御恵みをいただいている。洗礼を志願する人は、みんなそれまで精いっぱい生きてきて、ここで堂々とイエスを信じると宣言し、そしてようやく救いにあえる。

これは本当に美しいことです。感動的です。神があなたを呼ぶから。あなたにいてほしいと、洗礼をさずけて下さるのです。神の愛をつくづく感じられて、信仰を感じる。いい加減な気持ちで洗礼を受けるひとなんかいません。

神の愛はどんなものでしょうか。 わたしはよく問いかけますが、今日の朗読で、使徒パウロのコリントの教会への手紙が読まれましたが、そのなかで「愛は忍耐強い。愛は情け深い…」という個所がありました。この愛と神に置き換えてみると、なにか理解のてがかりが得られます。

「神は忍耐強い。神は情け深い。ねたまない。神は自慢せず、たかぶらない。」

愛と神はとおいものではありません。
では、さらに私とおきかえてみませんか。

「私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、たかぶらない。」

こうした私になるためには、自分一人の力ではとうてい無理です。そこに精霊の力が必要です。精霊のはたらきを願うために、祈りをするのです。人間の力では及ばない、神の愛がそこにある。そこであらたに生まれかわることを洗礼というのです。

一人一人を大切にして下さる神。
洗礼式では、水をひたいにかけるまえに、必ずひとりひとりの名前を呼びます。

名前のある、たった一人のあなたにかけるということです。
そのとき、神の子になることを選んだあなたの名前を呼んでいるのは、司祭ではなく、ほんとうは神なのです。



(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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