お 説 教 集

2013年2月17日  


ロワゼル神父様

悪魔の誘惑…神を忘れ、神からはなれること

このほど急遽辞任を発表された教皇ベネディクト16世ですが、教皇様が以前に語ったひとつの言葉をご紹介します。それは「神を忘れることは、人間としての尊厳を忘れることである」というものでした。

今日の福音では悪魔がイエスを誘惑するところが紹介されています。様々な形で、神に背くようにイエスをそそのかしていますが、これは教皇様が言った、神を忘れることとをさせようとしていたのです。

神を忘れて自分の力だけで生きるということを悪魔はさそったわけです。悪魔は「この国々(世界すべて)の一切の権力と繁栄とを与えよう。」とイエスに言います。

この誘惑はいつも我々の身の回りにあるものでもあります。人間はパンだけで生きることはありません。一方、私たちにはパンが必要です。生きるための制度が必要なのだといってもいいでしょう。

しかし問題はパンを食べるか食べないかではなく、それを生活の目的としてしまうことなのです。消えてしまう物のために努力するなら、私たちも、物のように消えてしまう。もともとの生命の主、生命を与えて下さった神を忘れてしまうのは、そうした誘惑に負けてしまうことです。

もうひとつの誘惑があります。より精神的なものです。イエスがもっとラクに人々を救えるようにと、そそのかす誘惑です。私たちの苦しみ、悩み、絶望もあるこの地上の生活。この絶望はどこから来るのかを考えてみると、自分だけの努力でどうにかできると思っていることにあります。それは神から離れてしまうことなのです。この四旬節に考えるテーマにしていただきたい事柄です。

悪魔の誘惑は巧みです。そそのかすとは、辞書を引くと、その気になるように、誘う、とくに悪い方へ、とあります。サタンは私たちをそそのかし、どんな人間も、どんな組織の中にもあらわれます。教会のなかにも、悪魔の誘惑がある。教会さえ負けてしまったことがあります。

洗礼を受けたとき、原罪は消えましたが、その影はまだ続いています。気を付けないともっと悪くなります。悪魔の力はきれいなところを捜して近づいてきます。人の状態がより悪くなれば、悪魔に負けたことになります。きれいなところで、悪魔は負けないために、いろいろな形で、私たちをそそのかします。

問題になっている聖職者の児童虐待の問題は、怒り、悲しい、残念を通り越して、まず途方もなく理解できない問題です。そこに悪魔の力が働いた。そうではなく、健康にならなくてはなりません。自分が神に支えてもらわなければどうにもならない存在と認識することです。

自分の生活、生涯の中心は、神なのか、富なのか、名誉なのか、名声なのかと自問すべきです。神から呼びかけられていることを思い出して下さい。このことは子供に伝える必要があります。子供たちは神のことを忘れていないか、神を思い出すにはどうすればよいのか、四旬節に考えていただきたいことです。

今日の聖歌には、きょうの私の話をとても短く表現しているところがあります。「主を仰ぎ見て光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く」(典礼聖歌128番)。みなさんの顔は輝いていますか。あ、輝いていますね(笑)。

みんな、洗礼のときは輝いています。大きな恵み、洗礼の準備をしている洗礼志願者もそうですが、主を信じる者は誰も失望することがない、誰でも救われます。皆さんが、自分に与えられた大きな恵みを感じられるように祈りましょう。

 


(文章については、特別に神父様からHP掲載の許可をいただいておりますが、テープおこしの段階などで、管理人の判断により修正を加えております。お説教録音テープの聴取が困難なときなど、文の省略もありますので、あらかじめご了承下さい)

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