安藤良整(あんどう・りょうせい) ?〜?

北条家臣。豊前守。豊前入道。名を「よしなり」と読む史料もある。
北条氏の出納関係の奉行人として、行政面の中心を担った。
永禄2年(1559)に作成された『小田原衆所領役帳』の小田原衆・玉縄衆・御馬廻衆の筆者として名が見え、永禄12年(1569)11月から天正16年(1588)7月までの期間は虎印判状の奏者として名が見える。これらのことから、少なく見ても30年の長きに亘って北条氏の行政の中心にあったことが窺える。
「一を聞いて百を察する才知」と称され、領国の代官という大きな職務から検量の基準となる公定枡の作成に至るまで、幅広く行政に携わったことが知られる。北条領国の公定枡となった『安藤枡(別称・榛原枡)』は、この良整に由来するものである。