本庄秀綱(ほんじょう・ひでつな) ?〜?

越後国の国人領主。本庄美作守慶秀の子。通称は清七郎。本庄実乃(宗緩)の後任として古志郡栃尾城主となる。
永禄2年(1559)10月、上杉謙信が京より帰国した際、太刀を献上して祝した。
元亀3年(1572)8月、謙信の越中国出陣に従軍し、謙信は翌元亀4年(=天正元年:1573)4月に帰国の途につくが、秀綱は越中国での在番を命じられている。
天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』に名が見え、軍役240人を負担していることが知られる。
天正6年(1578)3月の謙信の死後、上杉景勝と不和になった神余親綱に同調し、4月下旬頃より景勝派の直江信綱の居城・与板城などを攻撃した。御館の乱には上杉景虎を推して景勝と抗争し、同年9月頃には景虎が本拠とした御館に入城。同年10月24日の御館防衛戦にも尽力したが、11月に景虎方であった枇杷島城の救援に差し向けられた際、そのまま本拠の栃尾城に帰ってしまったという。
天正7年(1579)3月に景虎が敗死したのちも栃尾城に拠って景勝に抵抗を続けたが、天正8年(1580)4月に出陣してきた景勝の攻撃を受けると支えきれず、22日に栃尾城を捨てて会津へ逃走したという。