細川持之(ほそかわ・もちゆき) 1400〜1442

細川京兆家・細川満元の子。通称は九郎。中務少輔・右京大夫。幕府管領。
永享元年(1429)7月に兄・持元が早世したため家督を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐国の守護となる。永享4年(1432)に斯波義淳のあとを受けて管領となり、有力守護と合議してしばしば将軍・足利義教を諌めたが、義教の専制強化や守護大名を抑圧する政策を阻止できなかった。
嘉吉元年(1441)6月24日の嘉吉の変に際しては義教に随行して赤松邸に赴いていたが、凶事が起こると逸早く脱出して事なきを得た。そして翌25日には諸大名を招集して評定を開き、当面の課題に迅速に対応している。
この評定で、義教を討った赤松氏を誅伐するための人員と持ち場を編成したほか、将軍の後継者に義教の嫡男・義勝を立てることを決めており、この義勝は未だ8歳という若年であったため、成人するまでは管領である持之が代官として政務を執ることも承認され、これがのちに「管領政治」と称される管領の意向が強く反映される政治体制が布かれる端緒となった。
またこのときの評定で、義教によって更迭あるいは処罰された人々を赦免、つまり義教以前の所職に戻す方針も打ち出された。この恩赦によって武家では新旧の家督者による内訌が顕著になり、のちに勃発する応仁の乱の遠因のひとつとなった。
嘉吉2年(1442)6月29日、病のため管領を辞し、同年8月4日に没した。享年43。