北朝方で奥州総大将を務めた石塔義房の子。石塔義元(別称を義基・義憲)とは兄弟であるが、長幼の順は上明。従五位上・右馬頭・中務大輔。
建武2年(1335)以来、足利尊氏の配下武将として各地を転戦し、貞和5:正平4年(1349)5月には伊勢・志摩守護に任じられている。
同年8月に京都で尊氏の弟・足利直義と高師直の緊張が武力衝突寸前にまで高まった際には直義邸の警固に駆けつけており、観応元:正平5年(1350)10月末に直義が室町幕府(北朝)より離脱したことで「観応の擾乱《と呼ばれる分裂抗争が勃発すると、頼房は11月下旬に直義方として大和国の生駒山で挙兵し、12月には近江国から山城国に侵攻して尊氏方の京極高氏(佐々木導誉)やその一族と交戦するなど、一貫して直義を支援した。
観応2:正平6年(1351)2月に高師直らが排斥されたことで直義が尊氏と和睦すると、直義らとともに幕政に復帰して4月頃には引付頭人・右馬権守に任じられている。
しかし間もなく直義は尊氏・義詮父子と再び反目するようになり、同年7月末に直義は北陸方面へ出奔。9月頃より再び直義方と尊氏方の抗争が始まると、頼房は伊勢国から近江国へと侵攻して尊氏方の佐々木・京極氏らの軍勢と戦って破り、その後に直義軍と合流したようである。
その後、直義は関東方面へと進んで11月半ばに鎌倉に入り、東海道から進んできた尊氏らの軍勢と駿河国の薩埵山で戦う。この戦いに、頼房も父の義房とともに直義方として出陣している。
観応3(=文和元):正平7年(1353)2月の直義死去後は、その遺志を継いだ足利直冬に従い、南朝方とも連携するなどして尊氏・義詮父子への敵対を続けた。文和2:正平8年(1353)6月、文和4:正平10年(1355)1月の両度に楠木正儀(楠木正成の子)や山吊時氏らとともに京都を襲って幕府を苦しめたが、貞治3:正平19年(1364)頃に至って幕府に降ったようである。
その後の永徳元:弘和元年(1381)4月までには備中国川上郡の分郡守護に任じられている。