越後国の国人領主。越後国刈羽郡佐橋荘北条の領主・北条高広の子。
永禄6年(1563)頃に上野国厩橋城代に任じられた父・高広とともに、上杉謙信の関東経略に尽力した。
天正6年(1578)3月に謙信が急死して御館の乱が勃発すると、父と同様に上杉景虎に味方して小田原北条氏に帰属し、7月頃には上杉景勝の本貫地である越後国魚沼郡上田荘に侵攻しているが、この後は父と別行動を取り、9月早々には景虎に合流するために本領の越後国刈羽郡北条城に帰還し、10月初旬には景虎の拠る御館に入城して合流を果たした。
以後は有力武将のひとりとして御館の防衛にあたったが、天正7年(1579)2月1日の御館防衛戦で景勝方の荻田長繁に重傷を負わされ、御館に運び込まれたがそのまま死去した。一説には、前夜より八幡宮に参籠して祈願していることを探知され、待ち伏せしていた荻田の投げた槍に貫かれ、御館に逃げ入ったがその日の夕方、あるいは翌日に死去したともいう。