武田家臣。信玄の名臣といわれた。弾正忠。本姓は春日。初名は昌宣。晴昌・晴久・虎綱とも称した。
出自は甲斐国石和の大百姓の子で、初めは源助、源五郎といった。長じて北信濃の名族・高坂(香坂)氏の名跡を継いだが、晩年には本姓の春日に復している。
16歳のときに信玄に見出されて奥近習となった。美童であったという。
奥近習から使番を経て天文21年(1552)に侍大将に任じられ、信玄幕下の重臣に列せられ、天文年間末頃には信濃国の小諸城代、永禄初期には海津城将などを務めた。海津城将になったときの食禄は9千貫、武田家中の最高だった。
永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回のとき、撤兵する上杉軍の殿軍を攻撃して戦功があった。
元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦では、勝ちに乗じて徳川軍を深追いすることの非を信玄に説き、また、信玄が陣中で病死したときには直ちに緘口令を布いて武田軍内の動揺や混乱を防ぐなどの思慮深謀も兼ね備えていた。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦のときには、上杉勢の侵攻に備えて海津城に滞陣していたため直接に戦闘には参加しなかったが、敗戦の報を聞くと軍勢を引き連れて勝頼を途中まで出迎え、将兵の傷の手当てをし、用意しておいた武具や衣服で容姿を整えさせたうえで帰路を取るなどの配慮も見せたという。
長篠の合戦の敗戦後も勝頼をよく補佐し、海津城将として上杉謙信に川中島進出を許さず、内政経営にも尽力した。
衰退する武田家の前途を憂えて『甲陽軍艦』を著した。この書物の始めに、自分のことを「遁(にげ)弾正」と言っているのは有名である。この「にげ」は「逃げ」ではなく、合戦に臨んではより慎重に行動し、決して無理押しはしないという温厚和順な采配を示したものという。
天正6年(1578)5月7日、武田氏の終焉を見ることなく52歳で病没した。法号は憲徳院玄庵道忠居士。