京極政経(きょうごく・まさつね) 1453?〜1508

京極持清の三男。通称は六郎。初名を政高、文明10年(1478)頃に政経と改名した。従五位下・治部大輔・大膳大夫。文明12年(1480)には相伴衆に加えられている。
応仁の乱に際しては東軍に属していたが、その最中の文明2年(1470)8月に父・持清が没すると、家督継承者には持清に先立って病没していた長兄・勝秀の子である京極孫童子丸が立てられた。しかし孫童子丸は幼少であったため、家中を実効支配する後見人の地位をめぐって二兄・政光との不和が露呈し、この政光が西軍陣営に与したため家中が分裂して内訌となったが、政経はこの対立を制してその後見人の地位を勝ち取った。加えて孫童子は病弱であったとされ、代わって政経が京極氏の実権を握ることとなり、文明3年(1471)閏8月に出雲・隠岐・飛騨の3ヶ国、文明5年(1473)9月には近江守護に補任されて名実共に京極氏惣領となった。
しかし守護領国の近江国では北部に弟・京極高清(一説には孫童子丸の後身)が敵対勢力として台頭してきており、南部では西軍勢力・六角高頼、さらには六角氏を支援して美濃国の斎藤妙椿が介入。結果、文明10年頃には近江国は政経の手から放れている。
この頃には家臣団の分裂が顕著になっており、重臣の多賀氏においても多賀高忠と多賀宗直の2派に別れ、かつて政経に従っていた高忠が高清に属すようになると、政経は高清の重臣であった宗直を結んで文明18年(1486)に叛乱を起こさせ、高清勢力の減衰を謀っている。
この後も惣領職をめぐる高清との抗争は続けられ、長享2年(1488)8月には近江国松尾にて交戦するなどしているが、この内訌が京極一族の勢力を大きく減退させることとなり、守護領国の出雲国において守護代・尼子経久の隆興を許すこととなった。
永正5年(1508)12月4日に出雲国で死没した。