松平信定(まつだいら・のぶさだ) ?〜1538

三河国桜井城に拠った国人領主。松平長忠(長親)の子。松平信忠の弟。通称は与一。内膳正。桜井松平氏を称す。
武勇に優れ、合戦に臨んでは常に先手役を勤めた。松平清康に属して享禄2年(1529)5月の牧野氏の吉田城攻め、織田方との品野城・岩崎城の攻略戦に戦功があり、品野城を与えられている。
松平一族であるが、織田氏より尾張国守山に所領を与えられているようであり、松平・織田に両属していたふしが見受けられる。そのためか、松平氏の惣領である清康に対しても反抗的な態度を取ることもあった。
享禄3年(1530)の宇利城攻め際、危機に陥った松平親盛を援けなかったことから清康の怒りを買った。天文4年(1535)の守山出陣のときも参陣しておらず、同年12月の『守山崩れ』による清康の没後、織田氏と通じて清康の子・松平広忠を岡崎から逐い、所領を押領するなど勢威を揮った。この『守山崩れ』自体が信定の策謀によるもの、とする説もある。
天文6年(1537)、広忠の岡崎帰還により、父・長忠を通じて謝罪して許されたが、翌天文7年(1538)11月27日に没した。法名は道見。