松浦義(まつら・よし) ?〜?

名の読みを「よろし」とも。肥前国の国人領主。松浦党の一員で、肥前国平戸を本拠とした峯氏。松浦(峯・平戸)勝の子。松浦肥前守と称す。別称を是興・天叟。
永享9年(1437)に家督を継ぐ。
松浦氏の家譜『家政伝』によれば、無官であった義は官位を得るために永享7年(1435)に上洛したが叶わず、京都に滞在を続けていたが、永享9年に将軍・足利義教が石清水八幡宮に参詣した際の道路警固に、目立つように赤い烏帽子を被って出仕し、これが義教の目に留まったことから好を通じることとなり、肥前守の受領、鞍覆・白傘袋・錦の半袴等を許され、御伴衆に列したという。
義は京都に滞在している間、しばしば義教に近侍し、そのときには赤烏帽子を被っていたため肥前赤烏帽子と称されるようになった。義教は戯れにこの姿を絵に描かせたというが、長崎県平戸市の松浦史料博物館に伝わる松浦義の画像はこのときのものと思われる。
義の京都滞在は3年に及び、帰国したのちの嘉吉元年(1441)6月に義教が殺害されると(嘉吉の変)、上洛して首謀者である赤松満祐を討伐しようとしたが、すでに満祐が敗死したことを知ると帰国し、のちに義教を祀る寺を建立し、嘉吉2年(1442)に出家して一庵と号し、家督を二男の豊久に譲った。
長禄2年(1458)6月、京都の相国寺普広院で催された義教の年忌に際し、上洛して焼香し、銭3万疋を寄進したことが『蔭涼軒日録』に見え、義教との深い関係がうかがわれる。
生没年不詳。『家政伝』では「某年6月14日戦死」とする。