兵法家。確実な史料に乏しいこともあって出自には諸説あり、父は美作国吉野郡讃甘(さのも)村宮本の平田(新免)武仁(無二斎)とする説と、播磨国宮本村の田原家貞とする説がある。母は美作国竹山城主である新免(宇野)宗貞の娘・於政(おまさ)とする説と、播磨国佐用郡利神城主の別所林治(しげはる)の娘・率子(よしこ)とする説などがある。
宮本武蔵という名乗りの由来も不詳。宮本の姓は縁故の地名からか。新免姓も用い、新免玄信と称している。
武蔵自身の著作である『五輪書』によれば、13歳のときに初めて決闘をして新当流の兵法者・有馬喜兵衛に、16歳のときには但馬国の秋山という強力の兵法者に打ち勝ち、21歳のときに都に上って吉岡一門との3度に亘る決闘をし、その後、諸国を巡って佐々木小次郎(巌流)ら諸流派の兵法者と勝負をするなど、20代のうちまでに60回以上の決闘に臨んで一度も勝利を失わなかったという。そして30代以降は深き道理を得ようとひたすらに鍛錬を重ね、50歳の頃になってようやく「自ずから兵法の道に合う」ようになったと述懐している。
この過程において、はじめ「円明流」、ついで「二刀一流」、晩年には「二天一流」と称する流儀の剣術を創始した。
寛永11年(1634)、豊前国小倉藩主の小笠原忠真に客分として身を寄せ、寛永14年(1637)の島原の乱に際しては島原城攻撃に参加。このとき、一揆勢の投石を受けて足に重傷を負ったという。
また、この陣中で肥後国熊本藩老の松井興長・寄之父子と交誼を持ち、その斡旋もあって寛永17年(1640)8月より熊本藩主・細川忠利の招きを受けて17人扶持、合力米18石の客分として身を寄せる。
寛永18年(1641)2月、忠利の命を受けて『兵法三十五箇条』を著すが、その翌月の忠利の急逝には少なからず衝撃を受けたと見受けられ、熊本郊外の金峰山の霊巌洞で寛永20年(1643)10月より『五輪書』の著述に取りかかって正保2年(1645)5月12日に完成させ、その1週間後の5月19日、熊本で死去した。享年62。最晩年には隔症(胃癌あるいは食道癌か)を患っていたという。肥後国飽田郡五丁手永弓削村に葬られた。
宮本武蔵といえば二刀流が有名であるが、その根底には、武士は太刀と脇差の2本を腰に差しているのだから(戦いに臨んで)一命を捨てる時には残さず役に立てるべきで、とくに大勢と戦うときには刀1本よりも2本の方が良く、そのためには片手で自在に扱えるようになる必要があるとの考え方があり、それを鍛錬し、実践したものであろう。
また、武術だけではなく連歌や書画にも堪能であり、とりわけて水墨画の「蘆雁図(屏風)」は国の重要文化財に指定されており、達磨大師を好んで描いている。