三好政長(みよし・まさなが) ?~1549

三好之長の弟・三好勝時の子。三好勝長の弟。通称は神五郎。越前守。入道して宗三と号す。
三好氏の惣領・三好元長とともに細川晴元に仕え、大永6年(1526)の秋に波多野稙通・柳本賢治兄弟が管領・細川高国に叛いたときには波多野兄弟に呼応して阿波国から出陣、和泉国堺を経て摂津国に侵攻した。
翌大永7年(1527)2月の桂川の合戦においては兄・勝長や柳本賢治とともに細川高国・武田元光の連合軍と戦って勝利し、高国や高国の擁立する足利義晴を近江国に逐い、足利義維・細川晴元・三好元長らによる室町幕府に代わる暫定新政権(いわゆる堺幕府)の樹立に貢献した。
大永8年(=享禄元年:1528)8月、内部対立から堺幕府を離脱した元長に代わって晴元を後見し、参謀的地位に在って重用されるようになった。
晴元は享禄5年(=天文元年:1532)頃より堺幕府を見限って室町幕府への合流を目論み、元長を討つとともに足利義維を阿波国に逐って堺幕府を崩壊させているが、政長もこの晴元の行動に追従したため、元長の嫡子で三好氏嫡流を継いだ三好長慶と上和になった。
天文11年(1542)3月、太平寺の合戦に出陣。
天文13年(1544)5月には威勢を増した長慶の意向を受けた晴元の勧めで隠居し、家督を子・政勝に譲った。しかしこれは形だけのことであり、その後も晴元の命を受けて各地の合戦に従軍している。
天文17年(1548)、子・政勝の拠る摂津国榎並城が長慶らに攻囲されると救援に赴いたが、戦略を誤って天文18年(1549)6月24日に敗死した(江口の合戦)。
茶道を武野紹鷗に学び、よくしたという。