茂木知貞(もてぎ・ともさだ) ?〜1355

下野国の国人領主。茂木知氏の子。母は清久小次郎胤行の娘。左衛門尉・越中権守。法名は明阿。下野国芳賀郡茂木城主。
茂木氏は、鎌倉御家人の八田知家の三男である知基が、下野国茂木保に住したことに始まる。
知貞の生年は不詳であるが、建武3:延元元年(1336)までには出家していたとみられ、越中入道、あるいは法名の明阿を称されている。
正慶2:元弘3年(1333)7月9日と建武元年(1334)3月19日、勲功賞として後醍醐天皇から綸旨を与えられる。
建武2年(1335)、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は相模国の鎌倉に拠って建武政権から離反したが、知貞はこの尊氏に従っている。尊氏に属して活動するようになった時期は明確でないが、建武3年(1336)2月には摂津国兵庫で尊氏軍に参陣しており、こののちに九州へ向かった尊氏とは行動をともにせず、同年4月には陸奥国へと帰国する北畠顕家の軍勢と、鎌倉で戦っている。
その後も尊氏方(北朝方)として下野国や常陸国で後醍醐天皇方(南朝方)勢力と戦った。同年11月には自城の茂木城を落とされているが、まもなく奪還したようである。
これらの功績から建武4:延元2年(1337)7月3日、暦応3:興国元年(1340)6月3日、貞和3:正平2年(1347)4月15日などに所領の安堵や領知を得た。これによって、相伝されていた西茂木保に加えて東茂木保の領有をも認められ、悲願であった東西茂木保の領有を実現した。
文和2:正平8年(1353)6月に置文を認め、文和4:正平10年(1355)に没した。戒名は万照院殿決山常後大居士。