中村一氏の子。一角、松平伯耆守を称す。
父の遺志で、関ヶ原の役には東軍に属した。9月15日の関ヶ原の合戦に参戦し、その軍功で戦後に伯耆国米子17万5千石の城主となった。
このことと父の遺業もあって、徳川家康から松平の姓を授かり、松平伯耆守一忠と名乗った。
しかし慶長8年(1603)11月、老臣・横田村詮を手打ちにしたことからその遺臣たちの結束した抗戦にあい、ようやくこれを鎮圧したものの、失策を示すこととなった。
慶長14年(1609)5月11日、20歳の若さで没した。跡継ぎがいなかったため、中村家は無嗣断絶となった。