那須資重(なす・すけしげ) ?〜1434

下野国の国人領主。『那須文書』所収の「那須系図」によれば那須資氏の子で、那須資之の弟とされる。通称は沢村五郎。受領名は越後守か。
兄の資之は那須上荘に拠って那須氏の本宗家を継いで上那須家と称され、資重は庶流として那須下荘に住したことから下那須家と称される。
正長元年(1428)の資之の死後に上那須家と下那須家の反目が表面化すると、資重は鎌倉公方・足利持氏の支援を受け、京都扶持衆として幕府寄りの立場を示していた上那須家の那須氏資(資之の子)と対立した。
翌正長2年(=永享元年:1429)5月には持氏が近臣の一色直兼を大将に任じて那須荘に軍勢を送る事態となり、これを知った幕府は氏資を支援する姿勢を示したため、この抗争は一領主の内訌に止まらず、幕府対鎌倉府の様相を呈することになった。しかもこの出兵は持氏の軍勢が主体になっていたようであり、資重が積極的に関わっていたかは不詳である。
この足利持氏は野心家として知られるが、持氏が永享3年(1431)3月に幕府へ派遣した使者の弁明によると「那須太郎(氏資)が五郎(資重)分の沢村の地を押領したため」とされているので、この部分だけで判別はできないが、実際に庶流の資重が本宗家から抑圧を受けていた可能性もある。
この持氏の軍勢は7月末から8月にかけては那須上荘の那須館(黒羽城を指すか)を攻撃中であることが『満済准后日記』から読み取れ、10月頃には終息したようである。
永享6年(1434)8月8日に死去したという。