扇谷上杉氏の家宰を務めた太田道灌の嫡男。通称は源六。妻は三浦義同(道寸)の娘。
文明17年(1485)12月に10歳で元服したとされ(『梅花無尽蔵』)、同年には古河公方・足利成氏に出仕している。
翌文明18年(1486)7月、父・道灌が主君である扇谷上杉定正によって謀殺されると甲斐国に逃れ、ついで山内上杉顕定のもとに逐電した。この道灌謀殺と資康逐電が、山内・扇谷の両上杉氏の反目につながり、翌長享元年(1487)11月に勃発した両上杉氏の全面抗争(長享の乱)の端緒となった。
長享2年(1488)6月には山内上杉顕定勢として武蔵国須賀谷原の合戦に出陣し、敗戦後も同年9月末まで同地に在陣している。因みにこのときには三浦義同(道寸)も同陣しており、これが所縁となってその娘を室に迎えたという可能性も考えられる。
明応2年(1493)までは活動が知られ、その後の動向は不詳であるが、『赤城神社年代記録』の明応7年(1498)条に「太田源六生涯」とあることから、同年に戦死あるいは自害したと目されるが、太田氏の系譜や事績には不明な部分が多く、生年を文明3年(1471)、没年を永正10年(1513)とするものもある。
また、『太田家記』では資康を六郎右衛門尉とし、この六郎右衛門尉が道灌の死後にその名跡を継承したとしているが、事績や通称から見ても別人の事と思われる。