佐伯惟治(さえき・これはる) 1495?〜1527

大友家臣。大神(おおが)氏の後裔で、佐伯氏第10代の当主。佐伯惟世の子。薩摩守。正徹入道。豊後国海部郡佐伯荘栂牟礼(とがむれ)城主。
大永5年(1525)4月に主家である大友氏の許可を得ずに祖母岳大明神を領内に勧進したことをはじめとして、毎月の府内への出仕を怠ったこと、修験道(魔術)に傾倒して領内の統治を顧みなくなったことなどを罪状として挙げられて大永7年(1527)1月、大友氏重臣の臼杵長景を大将とする軍勢によって討伐を受けた。
惟治は弁明に努めたが容れられなかったため、栂牟礼城に籠もって抵抗を続けたが、臼杵の持ちかけた偽りの和議に応じて城から退去したところを襲撃され、自害した(栂牟礼城の戦い)。11月25日、33歳だったという。法名は捐館大機正徹大禅定門。
佐伯氏が討伐されるに至った理由は前述のほか、当時の大友氏当主・大友義鑑に叛意を抱いて肥後守護の菊池義武(義鑑実弟)らに内通したとするもの、あるいは義鑑が国人領主層への統制を強化するため、国人衆の中心であった佐伯氏の抑圧を図ったものともいわれる。