真田幸隆(さなだ・ゆきたか) 1513〜1574

武田家臣。通称は小太郎。弾正忠。名を幸綱とも。一徳斎と号す。
通説では北信濃の豪族・海野棟綱の子で、真田郷を領して姓を真田に改めたというが、棟綱の娘が真田(実田)氏に嫁ぎ、その間に生まれた子が幸隆である、とする説もある。
本家筋にあたる海野棟綱・幸義父子に属していたが、天文10年(1541)5月の海野平の合戦で棟綱が武田信虎諏訪頼重村上義清らの連合軍によって駆逐されると、矢沢氏・禰津氏らと共に落ち延びて上野国箕輪城の長野業政を頼った。
天文13年(1544)頃から武田信玄に仕え、新参者ながらも北信濃の経略において功を挙げて頭角を現した。謀略に長けた武将で、天文19年(1550)に信玄が力攻めにして落とせなかった村上義清の戸石城を天文20年(1551)5月26日、謀略を用いて一夜にして乗っ取った。詳細は不詳であるが、城内に内応者を作って自落させたといわれる。こののちに戸石城を与えられ、悲願であった旧領回復を実現した。
その後も武田方の先方衆として北信濃に在って、越後国の長尾景虎(上杉謙信)との対戦にも軍功を挙げた。
永禄2年(1559)、信玄と共に剃髪して一徳斎と号した。
武田氏が信濃国のほぼ全域を支配下に収めたのちは上野国の経略にあたる。永禄6年(1563)の岩櫃城、永禄8年(1565)末の岳山城、元亀3年(1572)3月の白井城の攻略に際しても謀略を用いて戦力を削ぎ、上野国経略の中心人物として武田勢力の拡張に大きく寄与した。
天正2年(1574)5月19日に病没。62歳。法名は長国寺殿月峰良心庵主。
中世以来、真田の山間地を本拠としていた真田氏は、幸隆の代に信濃国小県郡や上野国北部へ勢力を拡大し、のちの独立大名・真田氏の基礎を築いたことから、真田氏中興の祖と称される。
また、謀略に優れるだけでなく剛勇でもあり、総身に35ヶ所の傷跡があり『鬼弾正』と呼ばれたという。