常陸国佐竹氏第14代。佐竹義俊の嫡男。通称は次郎。従四位下・左衛門佐・左馬頭・右馬頭・右京大夫。常陸国太田城主。
享徳元年(1452)、父の義俊がその弟・佐竹実定によって太田城を奪われて追放されると、義俊とともに佐竹氏庶流の大山常金の庇護を受けて孫根城に逼塞したが、寛正6年(1465)に実定が没したのちに太田城に復帰した。
文明9年(1477)11月に義俊が没したことを受けて佐竹氏の家督を継ぐ。
この後間もなくの文明10年(1478)、祖父・佐竹義憲の代より佐竹氏宗家に反発を続けていた山入一族の後裔・山入義知の侵攻を受けるも、陸奥国磐城平(大館)城主・岩城常隆の支援を受けて撃退した。しかし文明17年(1485)7月、佐竹氏の衰勢を見て取った常隆からの侵攻を受ける。この攻勢に対して車・菅股・龍子山の3城を岩城氏に譲ること、嫡男の義舜に常隆の妹を妻として迎えるといった条件で和睦した。
延徳元年(1489)には伊達尚宗・蘆名盛高・白川政朝らの連合軍にも攻め込まれたが、家老の小野崎通綱の奇策によって辛うじて撃退できたという。
延徳2年(1490)4月25日没。享年48。法名は龍雲院殿一峰道綿大禅定門。