島津勝久(しまづ・かつひさ) 1503〜1573

島津氏第14代当主。島津忠昌の三男。母は大友政親の娘。12代・忠治、13代・忠隆の弟。幼名は宮房丸。通称は又八郎。八郎左衛門尉と称す。初名は忠兼。義忠とも称す。修理大夫・陸奥守。
永正16年(1519)4月に兄・忠隆が早世したことにより、16歳で島津氏本宗家の家督と薩摩・大隅・日向国の守護職を継いだ。
この頃の領国内は、かつて一族から分立して土着した諸領主が自立化し、この一族同士による度重なる抗争によって混乱しており、若年で惣領となった勝久ではその統治・支配が困難であったと見られる。このため妻の弟である島津氏薩州家・島津実久の補佐を受けていたが、のちに実久が守護職を強要したため対立するに及び、大永6年(1526)11月に島津相州家の島津忠良を鹿児島に招いて国政を委ね、さらには忠良の子・虎寿丸(のちの島津貴久)を養子に迎えて守護職を譲り、大永7年(1527)4月に忠良の本領である伊作に隠居、ついで出家した。
しかし間もなく実久から再び鹿児島に戻って守護の地位に就くことを勧められるとこれに応じ、6月下旬頃に鹿児島清水城に復帰、このときに還俗して名を勝久と改めている。
このため忠良・貴久父子やその与同勢力と不穏になり、享禄2年(1529)7月には事態を憂慮した島津忠朝・新納忠勝・禰寝清年・肝付兼続・本田薫親・樺山久幸・島津運久・北郷忠相ら有力領主が忠良父子との和睦を斡旋したが、これに応じなかった。
天文3年(1534)10月、家臣の川上昌久と末弘忠重の抗争において末弘が川上に殺害されると、末弘を重用していた勝久は身の危険を感じて大隅国禰寝へ逃亡した。
翌天文4年(1535)4月には鹿児島に帰還して川上昌久を討ったが、これによって家中の分裂を招き、川上氏に与した実久らの攻撃を受けて10月に鹿児島を逐われ、祁答院重武を頼って大隅国帖佐へ逃れた。
そののちも菱刈氏や蒲生氏を頼って各地を流浪し、天文5年には真幸(日向国の真幸院?)の北原氏を頼り、天文末年には母方の縁戚である大友氏を頼って豊後国へ落ち延び、天正元年(1573)10月15日に豊後国の沖之浜で死去した。享年71。法名は大翁妙蓮大定門。