島津氏第9代当主。島津氏奥州家・島津久豊の嫡子。母は伊東祐安の女。応永10年(1403)5月2日、日向国穆佐(むかさ)院の高城に生まれる。通称は又三郎。初名は貴久。修理大夫・陸奥守。薩摩・大隅・日向守護。
若年時より父・久豊を援けて日向国の経営にあたり、応永28年(1421)に久豊の命を受けて薩摩国薩摩郡の隈之城に島津氏総州家の島津忠朝を攻めて降伏させ、翌年には薩摩国山門院の木牟礼城に総州家の島津守久を攻めて肥前国に逐う。
応永32年(1425)には久豊の死没によって家督を相続し、8月28日に幕府将軍・足利義教から薩摩・大隅・日向の守護に補任された。
永享2年(1430)に日向国真幸院の徳光(徳満)城に守久の子・久林を討って島津氏総州家の主流を滅ぼし、応永8年(1401)以来の奥州家と総州家の抗争を終息させた。しかし、この抗争に起因する領国内の混乱は未だ止まず、永享4年(1432)頃に領内の国人領主らの一揆が盛んに起こるようになるとその統制に苦慮し、弟の用久(別称を好久・持久:島津氏薩州家の祖)を起用して守護職を代行させ、自らは大隅国末吉に移居した。この騒擾は用久の奔走によって沈静化したが、このために用久の威勢が伸張し、兄弟間にも反目が生じることとなった。
嘉吉年間頃には用久との確執はさらに深まり、忠国は鹿児島、用久は谷山に拠って武力衝突の危機が高まる。忠国は幕府から用久討伐令を取りつけているが、文安5年(1448)には和睦するに至った。
宝徳2年(1450)、伊集院煕久を攻めて肥後国に逐う。
晩年には子の立久が代わって政務を執ったが、父子間に不和を生じた。実権は立久の手中にあったため、忠国は政務から離れて南薩摩の加世田・坊泊に移住した。一時は琉球渡海も企てたともいうが、これは嘉吉元年(1441)に日向国に潜伏していた足利義教の弟・大覚寺義昭を討った功として琉球支配の権限を与えられたということに依拠するものであろうか。
文明2年(1470)1月20日に没した。享年68。法名は大岳玄誉。鹿児島の磯鶴嶺神社鎮像殿には旧小城権現の神像として明応5年(1496)作の忠国小像が現存する。