白河結城氏。白川直朝の子。別称を義永。弾正少弼。陸奥国白河郡白川城主。
文明2年(1470)6月に相馬高胤(隆胤)、文明6年(1474)には岩城親隆と一揆契約を結ぶ。この文明2年には弾正少弼の官途を称している。
文明4年(1472)、家督を父・直朝から譲られる(文正元年:1466前後との見解もある)。
文明13年(1481)3月23日、白川城下の鹿島神社の神前で1日1万句の発句の会を開く。また延徳3年(1491)に幕府管領の細川政元は京都から北陸地方を経て越後国に赴いているが、最終的には白川氏の所領である陸奥国の白河を目指したものという。当時の白川氏の声望の高さを示す逸話である。
永正3年(1506)に始まる古河公方家の内紛(永正の乱)に際し、当初は有力な一族の小峰朝脩とともに足利政氏支援の立場をとっていたが、第二次の抗争を境に小峰氏が足利高基支持に転じると、小峰氏とはしだいに反目しあうようになっていったものと思われる。
永正7年(1510)9月、岩城常隆の支援を得た小峰氏からの急襲を受け、二男で那須氏の嗣子となっていた資永を頼って下野国那須に逃れた(白川氏永正の乱)。
通説では、政朝には小峰氏息女出生の子・顕頼があったが、この妻の死後に迎えた後妻の蘆名氏息女の子である五郎を寵愛し、永正7年2月に小峰朝脩を自害させた。このため9月に至って岩城氏の支援を得た朝脩の父・小峰直常の急襲を受けて政朝は那須に逐われ、白川氏の家督には顕頼が据えられたという。
しかし、その後も朝脩が生存していたことが窺われる史料や、政朝と思われる者の同年9月10日の位牌銘なども存在することから、不詳といわざるを得ない。