相馬重胤(そうま・しげたね) ?〜1336

相馬氏第6代当主。相馬(彦五郎)師胤の子。幼名は松鶴丸。通称は弥五郎。妻は田村清経(宗献)の女。
正応2年(1289)2月、父から下総国相馬御厨内の益尾・栗野・薩間村や陸奥国行方郡の小高・耳谷村などの所領を譲与され、さらに永仁4年(1296)には伯父・胤門の養子となって行方郡の高村・堰沢・磐崎村・鳩原村などを譲渡された。
しかし永仁5年(1297)6月には高村・堰沢の領有をめぐって伯父・胤氏と、正安2年(1300)4月には益尾村・小高村・磐崎村の件で叔父・胤実と相論を起こした。また、胤門の死後には行方郡の所領についてその娘とも相論を展開しているが、この件は嘉元元年(1303)に和議が成立し、その土地の三分の一が従兄弟・相馬(左衛門尉)師胤(父の師胤とは別人。相馬胤氏の子)に渡されている。
さらには元亨元年(1321)に得宗北条氏の有力家臣・長崎思元とも相論が構えられ、所領支配の確保や強化のために元亨3年(1323)4月に陸奥国行方郡小高郷に下向、そのまま移り住んだものと思われる。
正慶2:元弘3年(1333)7月、討幕を果たした後醍醐天皇より、妻の伝手から所領安堵の綸旨を得て、さらに建武2年(1335)6月には国宣で行方郡奉行に任じられ、伊具・亘理・宇多・行方郡と金原保の検断職を同族の武石胤顕と共に命じられた。
同年、中先代の乱を鎮圧した足利尊氏が関東に留まって建武政権に反して挙兵するとこれに迎合し、11月には子の親胤・光胤や一族衆らに所領を譲与したうえで尊氏方の斯波家長に属して鎌倉に向かい、その防備にあたった。
翌建武3年(1336)2月には在地の二男・光胤に、行方郡小高に築城して足利氏に味方すべきことを命じているが、同年4月には陸奥国に帰還する途次の北畠顕家を相模国の片瀬川畔にて迎撃したが敗れ、鎌倉の法華堂で自害した。