高橋弘厚(たかはし・ひろあつ) ?〜1529

石見国の国人領主。高橋久光の子。高橋元光の弟。
高橋氏の本領は石見国阿須那であるが、周防国ほかの守護大名・大内氏に属して石見国の出羽や安芸国高田郡北域から山県郡東域にまで及ぶ所領を構え、当時のこの地方の民談に「3歳の子牛の毛数ほどの人数」とも称される強大な勢力を有していた。
惣領であった兄・元光が永正12年(1515)3月に備後国の三吉氏と戦って敗死すると、隠居していた父・久光が家中を差配して弘厚の子・興光を家督に就けるが、その久光も大永元年(1521)の夏に戦死したのちに弘厚が一族内の主導権を握ったと見られる。
弘厚は安芸国高田郡松尾城に拠り、姉または妹が毛利興元の妻となって嫡男・幸松丸を産み、興元の没後は幸松丸が毛利氏当主に立てられたため外戚として威を揮い、毛利氏の家政にも強く干渉した。
この反発もあってか、弘厚が大内義隆から尼子経久に寝返ったことが露見すると毛利元就に松尾城を攻められ、享禄2年(1529)5月に討死した。次いで元就は阿須那藤掛城に拠った興光をも自刃に追い込み、高橋氏は全滅させられている。