武田信廉(たけだ・のぶかど) 1532?〜1582

武田信虎の子。武田信玄信繁の同母弟。通称は孫六。初名は信連、のちに信廉と改める。刑部少輔。号は逍遥軒信綱(しょうようけん・しんこう)。親族衆騎馬80騎持。
武人としてよりも戦国期の画家として著名であり、父である信虎画像、母の大井夫人画像は国の重要文化財となっており、他にも多くの作品を残している。また達筆であったことも知られており、信玄口上の代書役でもあった。
永禄4年(1561)に次兄・信繁が戦死したのちは、親族衆の筆頭として信玄の補佐にあたった。
元亀元年(1570)に信濃国深志城代となり、翌年には武田勝頼に代わって信濃国高遠城主となった。
信玄没後の天正元年(1573)に落髪して逍遥軒信綱と号す。
天正9年(1581)、娘婿で甥にあたる仁科盛信の高遠城主就任を受けて信濃国大島城に移る。
戦陣においてはもっぱら本陣の守備にあたっていたためか特筆すべき戦功や武功譚もなく、武田氏滅亡直前の天正10年(1582)2月に織田氏の勢力が侵攻してくると、伊那谷での守衛地である大島城の守備任務を放棄して甲斐国に後退している。主家滅亡後は織田方に捕えられ、甲斐国府中の相川で斬罪された。51歳か。法名は逍遥院殿海天綱公庵主。
容貌が信玄に酷似していたことが知られており、数々の合戦において信玄の影武者を務めたと伝わる。また、信玄の病没後は裳を伏せるためにしばらく信玄に成りすましていたもといわれ、「信玄死没」の噂を聞いた北条氏がその真否を確かめるために家臣の板部岡江雪斎を見舞いと称して派遣したが、江雪斎は信玄のふりをして床に伏せっていた信廉を信玄と間違え、「信玄は生きているが病気だ」と報告したという。