多胡辰敬(たこ・ときたか) ?〜1562?

尼子家臣。多胡忠重(悉休)の末子。左衛門尉。石見国刺賀岩山城主。
多胡氏は上野国多胡荘が名字の地と見られ、辰敬の5代前の小治郎重俊は文武兼ね備えたうえに「日本一の博打打ち」と称され、その絵姿が人々に持てはやされて『多胡博打』の名を生んだという。重俊以後も重行、高重と代々が文武両道の「名人」「達人」と称される家系で、辰敬の祖父・多胡俊英は京極持清に属して応仁の乱で戦功を挙げ、石見国邑智郡に所領を与えられて移住したと伝わる。
祖父ないし父の代より尼子氏に属し、辰敬は12歳で上洛して尼子氏の本宗にあたる京極氏に仕えたのち出雲国に帰り、25歳の頃より諸国を巡り、38歳のときに再び出雲国に戻って尼子氏の奉行となった。
天文9年(1540)より翌年にかけて尼子晴久毛利元就を攻めた郡山城の戦いに参陣。この敗戦後も尼子氏に忠節を尽くし、天文12年(1543)頃より刺賀岩山城主となって2千貫の所領を知行した。刺賀は大内氏との激しい争奪戦が展開されていた石見国の大森銀山を確保するための重要な拠点であると同時に出雲国防衛の面から見ても最前線となる要地であり、辰敬は自ら志願してこの任に着いたというが、永禄5年(1562)2月に毛利氏に攻められて落城、討死したという。
辰敬の制定した『多胡辰敬家訓』は、手習学文・弓・算用・乗馬・医師・連歌・包丁・乱舞・蹴鞠・躾・細工・花・兵法・相撲・盤上の遊(囲碁・将棋)・鷹・容儀の17ヶ条から成り、とくに「命は軽く、名は重く」の一節は有名である。
『石見外記』所収『武者物語』や『元就記』など複数の史書において、辰敬は武芸を勤勉に励み、主家への忠臣篤い人物であったと伝わり、出雲国の出身で南禅寺の住職となった惟高妙安は天文22年(1553)に書いた『多胡辰敬寿像讃』で「義あり勇あり」と讃している。