薬師寺公義(やくしじ・きんよし) ?~?

足利氏の家宰・高氏の重臣。彦次郎、ついで次郎左衛門尉と称す。加賀権守。
康永3:興国5年(1344)、新たに鎌倉府執事となった高重茂を補佐して関東に下向し、康永4:興国6年(1345)2月には武蔵守護代の地位に就いていたようである。
観応元:正平5年(1350)10月、配下の武蔵武士団を率いて常陸国信太荘へと出兵。この出兵は南朝勢討伐のためと称しているが、この地は足利直義党の上杉能憲の所領であり、実は直義党勢力の削減を企図したものと考えられる。これに対して11月に能憲の軍勢が信太荘に、12月に能憲の父・上杉憲顕が上野国に挙兵して武蔵国に侵攻すると、早々に高師冬を見限って京都に逐電した。
しかし京都は足利直義に制圧されており、公義は降伏を願い出て許された。この前後に出家して元可と号したという。
『太平記』では、高師泰師直兄弟やその主君である足利尊氏が観応2:正平6年(1351)2月の摂津国打出浜の合戦で直義勢に敗れた際、師泰・師直が出家することを条件として講和が成立したが、公義は頑としてこれに反対して徹底抗戦を主張、しかし戦意を失っていた師直らの姿を見て、出家遁世して高野山に向かった、としている。
しかし同年末の駿河国薩埵山の合戦時には足利尊氏方の武将として俗世に復帰しており、12月19日には上野国那和荘で直義方の軍勢と戦っている。また、その後の武蔵野合戦にも尊氏方として従軍した。
『新千載和歌集』に6首の歌が収録されるなど歌人としても著吊で、著作に『元可法師集』がある。
高師直が美貌で知られた塩冶高貞の妻に横恋慕し、彼女の気を引くためにか公義の詠んだ和歌を贈ったというが、返事は芳しくなかったようである。
また、文和2:正平8年(1353)に京都祇園社で興行された勧進田楽能『四匹の鬼(四匹八足)』に使われた短歌の作者でもある。