山県昌景(やまがた・まさかげ) ?〜1575

武田家臣。右三郎兵衛尉。武田氏譜代の重臣・飯富虎昌の実弟であり、昌景も武田信玄勝頼の2代に仕えた。
その風貌は小男にて不器量と伝わるが、信玄の股肱の猛将として名を馳せた。
はじめは飯富源四郎といい、信玄の近習から使番を経て侍大将となり、永禄6年(1563)に三郎右兵衛尉と改めた。譜代家老衆3百騎持。永禄8年(1565)に信玄の嫡男・義信の守役だった兄の虎昌が謀叛の疑いで自刃(武田義信幽閉事件)させられたのち、山県氏の名跡を継いで山県昌景と名乗る。
山県隊は甲斐武田軍団の中でも精強を誇り、猛者が最も多いことで知られる。山県隊3百騎のうちで3通以上の感状を持ったものが67人もいたといい、昌景もその隊長の名に恥じない猛将であった。
山県隊は具足を赤色に統一、その勇猛ぶりは『赤備え』と恐れられた。
駿河国の江尻城主も務め、元亀元年(1570)の三方ヶ原の合戦では徳川家康軍に正面攻撃を仕掛け、秋山信友隊と共に家康本陣へと肉薄、大いに切り崩した。このとき、家康も自決の覚悟を決めたという。
天正3年(1575)5月の長篠の合戦では敵陣へと突入、戦死した。このとき、全身に銃弾を浴びて半身の自由を失ったが、采配を口に咥えて指揮を続けたといわれる。
武田家滅亡後に家康は山県隊の旧臣を井伊直政隊に多く配属し、『赤備え』を復活させた。