出雲国の国人領主。米原綱広の子。通称は平内兵衛。出雲国出雲郡高瀬城主。尼子氏に仕え、米原氏の拠る高瀬城は尼子十旗の第6である。
天文9年(1540)、尼子晴久による安芸毛利氏の郡山城攻めに従軍。
永禄5年(1562)6月頃に安芸国の毛利元就が出雲国への侵攻に着手すると、本城常光・三沢為清・三刀屋久扶・赤穴久清・湯原春綱らと時を同じくして毛利氏に降った。同年11月に毛利氏が本城常光を謀殺すると出雲国の領主らの多くが毛利氏より離反したが、綱寛は三沢・三刀屋・赤穴氏らと共に毛利陣営に残っている。
永禄12年(1569)6月、尼子氏再興を目指して決起した尼子勝久が出雲国に侵攻した際、綱寛は毛利氏の北九州出征に従軍しており、同年8月に出雲国月山富田城の救援を命じられて帰国したが、この直後に尼子方に寝返った(月山富田城の戦い:その3)。この離反の裏には、大友宗麟による策動もあったようである。
以後は勝久の創業に尽力し、永禄13年(=元亀元年:1570)2月の布部山の合戦にも尼子方として従軍している。また、高瀬城は尼子方の主要拠点のひとつとして機能したが、勝久の拠った新山城や他の支城との連携を分断、あるいは陥落させられたために維持が困難となり、吉川元春に降って元亀2年(1571)3月19日に開城、新山城に退去した。
のちに浪人して上洛したというが、詳しい消息は不明である。