下総国結城氏第16代当主。第15代・結城政朝の庶長子。小山高朝の兄。通称は三郎。下総国結城城主。
通説では大永7年(1527)頃に父・政朝から結城氏の家督を譲られたとされ、系図でも政朝の次代の当主とされている。
しかし政勝は大永8年(=享禄元年:1528)9月に家臣に宛てて所領宛行状を発給したのち、次にその名が史料に現れてくるのは11年後の天文8年(1539)7月からであり、その間の享禄4年(1531)9月から天文5年(1536)7月までの約5年間は『政直』名の安堵状などの文書が発給されており、『政勝』名の文書はないという。このことから、兄弟と推測される政勝と政直の間で家督をめぐる争いが生じ、享禄元年以降のある時期には政直優位となったが、天文5年以降に政勝が政直を没落させて復権を果たしたのではないか、とする見解がある。
結城氏当主としての地位を固めたのちは山川氏や水谷氏、多賀谷氏といった有力領主への影響力を強め、天文8年には宇都宮尚綱とその重臣・芳賀高経の内訌に介入して芳賀氏を支援、また同じ頃に起こっていた那須氏の内訌にも介入して那須高資を支援しているが、これらの抗争を通じて同族の小山氏や白川氏と連携し、近隣領主の佐竹・小田・宇都宮氏らとの対立を深めた。
弘治2年(1556)4月、相模国の北条氏康の援助を得て常陸国の小田氏治を破って(海老ケ島の合戦)多くの所領を獲得したが、北条氏や北条氏の擁立する古河公方・足利義氏の権威や支援を得ての勝利であったため、同年8月には復帰した小田氏治によって旧小田領の大半を奪い返されている。
その3ヶ月後には家中の統制を図って104ヶ条の法度を定め、養嗣子の晴朝のときに追加した3ヶ条と合わせて『結城氏新法度』と呼ばれている。
晩年は病気がちであったと伝わり、永禄2年(1559)8月に享年56で没したという。